東都嘉慶の宴

宝暦2年(1752)3月、今の千寿常東小学校の所にあった甲良屋敷で

当時の文人を集めた花宴が催されました。

この時の記録が東都嘉慶花宴集として発行され現存1部のみ京都大学図書館にあるそうです。

またそのことを刻んだ碑が小学校の正門の所に現存します。

表側にその由来を記し裏側には甲良屋敷の図面が載せられており大変貴重な資料となっています。

右側にあるのがその拓本からとった文面の図です。

 

そもそも甲良屋敷というのは徳川家康の大工大棟梁の職にあった甲良豊後守宗広に始まる甲良家がその3代宗賀のとき

寛文10年(1670)約一万坪の敷地を今の千寿常東小学校を中心とした部分に賜り屋敷を構えたのに由来します。

日光東照宮の造営の責任者として多大な業績を上げた甲良家が千住宿の建設の指揮もとりそのための拠点が

この甲良屋敷であるとは当地の郷土史家で甲良屋敷の研究で名高い渡辺春園先生の説です。

この屋敷は甲良宗賀の後その孫の坂上登(本草家としては田村藍水の名で知られる)の所有となり

この年中国からもたらされた嘉慶樹が実を結んだのでそれを記念するための宴が開かれました。

上の碑面の本文を現代文に訳すと

この美しいスモモの木は昔、水戸府にある寿昌山の開山である支那の興儔東皐禅師という方が

かつて海を踏み(渡海して)、皇和(神聖な日本国の意)にいらっしゃった時

スモモの実一個を箱の中に隠して持ち込みました

即ちこれが嘉慶坊よりもたらされた実なのです。

となります。

そしてこの会に参加した面々は嘉慶樹をもたらした心越禅師の弟子で上の碑文の筆者小野田東川

主の田村藍水とその弟子平賀源内下の絵を描いた黒川亀玉ほかに成島錦江などの人々でした。

 

これを記念してこの文集が編まれ碑が彫られ絵が描かれました。

上の絵は中央の嘉慶樹と集った主な面々が描かれています右の琴を弾いているのが東川、

中央で木を見ているのが錦江、左で碁を打っているのが黒川父子、左端の人物が源内と言われています。

左上の建物が甲良屋敷で中国風の外観やほかに見られないユニークな窓の形などで有名だったそうで

大正時代まであったそうです。

絵の背景の線はこの庭が高い盛り土の上に築かれた様子を示していると云われます。