問屋場及び貫目改所

 

問屋場と言うのは宿場の事務を取りまとめる所です。

千住八町の各町には名主がおり、それが行政事務を執っていました。現在の町長に当たります。

それに対して宿全体をまとめ全体としての行政を扱うのが問屋場です。

千住宿の問屋場は元禄8年(1695)に設置されました。

位置は千住一丁目の西側、江戸の方から来て仲町をすぎ熊谷土手をこし江川掘にかかった千住小橋をわたると

右側に馬寄せ場(今のカンダヤ文具店のところ)

次いで飛脚宿(後に酒合戦の舞台となる所で今の広瀬薬局ヒロセ靴店の敷地)がありました

左側に茶屋(今の足立成和信用金庫本店)があり一軒おいて問屋場がありました(現在空き地、石碑があります)。

間口七間、奥行十七間、面積119坪ほどのものでした。南側正面に荷捌き用の空地がありその奥に中心となる建物

そして北側の慈眼寺参道に沿って別棟がありました。

職員は問屋、問屋見習、年寄、帳付、馬指、定使があり、

事務員である帳付は2名、伝馬関係を扱った馬指は8名、雑用の定使は8名

千住八町の名主は皆問屋になっており、そのうちの4名が1年交代で当番の問屋を勤めました。

勤務は2人組みで月の前半と後半に分かれて担当したそうです。

つまり常駐する問屋は2名となります。

年寄は29名おり年番として4名が毎年交替して勤めました。

従って下役とあわせて通常の勤務体勢では24名の職員が居ると言う事になります。

貫目改所は寛保3年(1743)に敷地内に併設されました。江戸時代には当然ですが貫目御改所(かんめおあらためしょ)と呼ばれました。

これは公用荷物を伝馬で運ぶため、重量を測り運賃を決める役所です。

日光街道では宇都宮に北側の改所があって江戸へ来る荷物は宇都宮で江戸から出る荷物は千住で重量を測り運賃を定めました。

委託する客は大名や寺院なので町人がそれに文句をつけられないので郡代役所の役人が常駐していたようです。

しかしそれでも少なめに計る事が多かったようで越谷や粕壁などの宿場はかなり不満を持っていたようです。

4名ほどの職員が居たようですが郡代役所の出役の職員以外は問屋場の職員が兼任していたのではないでしょうか。

明治時代になって運送会社の制度が出来るまで使われました。

この宿の中心の役所は明治の町村大合併で千住八町の内、本宿5町と仲町(河原町と橋戸町を含む)が合併して千住町になり(注1)

足立郡が分割されて東京府に属した部分が南足立郡になる(注2)に及んで

すこし西側の裏に移転し千住町役場(旧足立区役所の分室:不動院隣の部分)と南足立郡役所(旧足立区役所本庁舎の所)となりました。

そしてこの日光街道に面する敷地は民地となりました。

一昨年、区役所跡地再開発によるビル建設の前提として発掘調査が行われました。

これにより千住地区の建設の経緯を含む多くのことがわかったと思われます。

 

(注1)千住宿のほかの二町は合併して千住南となり、隣の地方橋場村と併せて南千住町になりました。

このとき周辺の村の一部分をも合併したのでかつての千住南より3倍ほど大きくなりました。

ここは豊島郡に属していましたがこちらも南北に分割されここは北豊島郡となりました。

(注2)足立郡は北は吹上町まで続いており中心は大宮市でしたそれで埼玉県に属する事になった大部分の地方は北足立郡とされました。

 

挿絵は郷土博物館発行の「千住宿」所収の「大日本帝国駅逓志稿」の問屋場の図の部分です。

どこの宿場の図かはわかりませんがこのような風景であったのでしょう。

千住の問屋場については絵も図も残っていないようで上に述べたような家屋配置は

郷土博物館で分間延絵図の図などより復元したそうです。