鷹狩と鳥見番所

江戸時代

三河島から足立区南部、葛飾区北部にかけては将軍家の鷹狩のための場所に指定されていました。

徳川家康公以来歴代の将軍は武門の棟梁として鷹狩を主催してきました。

そしてこの地域はその内の鶴御成り、雉御成りの狩場に指定されていたのです。

 

鷹狩行事一覧表   

鶴御成り

寒の入りの後

千住、三河島、小松川、品川、目黒

雁鴨御成り

10

隅田川浜御殿(浜離宮)

鶉御成り

10

駒場野

雉御成り

4

千住、三河島

 

そのためこの地域一帯は禁猟区に指定されました。鳥はもちろんその餌になる虫類や小動物も禁猟だったのです。

この地域一帯の農民は鷹狩が予定されると勢子として動員されたり

季節ごとに鳥の餌になる虫類(特にケラとか)の供出を求められたりして大変だったようです。

鷹狩の時期は穫り入れ後や田植え前になるのですが休耕地に馬が乗り入れて獲物を追うので

後始末はまたこれ大変だったようです。

将軍様は江戸城をでて大川から船で石浜に上がり砂尾堤を通って千住大橋の袂に出る事が多かったようです。

もちろんその他の船着場(例えば綾瀬の五兵衛橋近辺とか)へ着くこともあり特に決まってはいなかったようです

そして狩場を回って昼には茶屋本陣でお休みになり帰りにはしかるべき屋敷で衣装を調えられお城へ帰られたようです。

と言うわけでこの地区には茶屋本陣の指定を受けた寺院や茶屋(例えば茶釜といわれた爺が茶屋)がいくつもあったそうです。

またしかるべき屋敷も上記の茶屋本陣のほか名主屋敷が当てられる事が多かったようで千住の地区内でも何ヶ所かあったようです。

従ってこの地は将軍様にとっては宿場と言うより遊び場だったのでしょう。

さてその狩場を管理する事務所が鳥見番所といいました。

千住の鳥見番所は今日の千住一丁目裏の地(千住1168)に置かれました。

今日その場所には石碑が立っています。また番所の屋敷神だった稲荷社は虎斑稲荷と呼ばれましたが同地に健在です。

この番所はしかし寿命が短く寛文5年には廃止され上中里の鳥見番所が兼任することになりました。

この番所の仕事は詰めている鳥見役人が区域内の鶴雉の生育状況・飛来状況を把握し

禁止事項(鳥、虫、その他野性小動物の捕獲の禁止)が守られているかの確認及び取締り、

農民の動員の手配、事前にまく餌等の手配、将軍様のお成りになる前の土木工事の手配などでした。

終わりに鷹を飼育し訓練していた鷹部屋(2箇所)、鳥見番所(8箇所)の一覧を付けておきます。

 

鷹部屋

千駄木

雑司が谷

鳥見番所

千住

鳥見番所

上中里

鳥見番所

亀有

鳥見番所

志村

鳥見番所

東小松川

鳥見番所

高円寺

鳥見番所

上目黒

鳥見番所

東大森