素盞雄神社(天王様)

南千住駅前通りが国道4号線に当たるところにあるこの神社は
南千住の大部分のみならず三ノ輪、三河島、町屋もその氏子にしている浅草以北では
屈指の神社である。
延暦14年(795)素盞雄命と事代主命が顕れこれを祀ったのが始まりとされ
実に1200年強の歴史を有する神社である。

この神社の正面南側に向かってやってくる道が
旧日光街道で日光御門跡が上野寛永寺の御本坊を出られて
真っ直ぐ来る道がこの道である。
そのためこの道に沿っては上野の支配下にあり
街の名も下谷通新町と呼ばれた。
ちなみに現在でも国道4号を越えるガードを
通新町跨線橋と言う。
この道は神社の境内に当たると東に折れ
現在の南千住駅方向から来る旧奥州街道と
神社の角で合流し千住大橋のほうへ向かっていった。
この場所は現在の国道の真ん中付近に当たると言う。
現在の国道4号線に向かう門は従って
旧奥州街道の正面に向いていた門である。
この立地だけ見てもこの神社の重要性がわかるというものである。

右の写真が南に向かっている拝殿である。
この正面が旧日光街道に当たる。

素盞雄命は仏教で言う牛頭天王に習合していたのでこのことから
この神社はてんのうさまと呼ばれることになった。
一方孫の事代主命は飛鳥明神ともされ
江戸時代には二つの社とされていた。

現在の国道4号線のある部分は
その頃江戸名所図会にも載っている
広い池で放生池として使われ親しまれていたようだが
三ノ輪から千住大橋までの区間を直線として拡幅し
市電を通す事になった時埋め立てられその姿を消した。

境内中央にある瑞光石が
この神社の本来のご神体で
この石が光を放って
そこに素盞雄命が翁の姿で
降臨されたと言う。
そこでその光にちなんで
この名がつけられた。
その光に包まれた地域にあるということで
南千住の小学校は
全て瑞光小学校とされたほどである。
右の写真はその瑞光石の祭られている
区画の入り口である。
鳥居の両側に
天王社と飛鳥社の提灯が見られる。

この瑞光石のある場所は
塚であったことから
古塚と呼ばれそれが通音で小塚とされ
その周囲を小塚原と呼ぶようになったとの説もある。
現在その周囲は築山になっており
富士信仰の拠り所とされたため江戸末期にはその頂に
浅間神社が祀られ合わせてその周りを玉垣で区切り
現在境内の聖域となっている。
写真の右側正面が瑞光石のお社で
この奥に瑞光石が祀られている。
下の写真がその内部である。
鳥居を入ってその反対側左側に曲ると富士山の入り口がある。
一般には登山禁止だがその山頂に浅間神社がある。

6月に行われる天王祭は浅草以北最大のお祭りで
その神輿振りによって特長付けられる。
大型の神輿をほとんど45度以上まで振るので三社祭りのように
神輿の上に人が乗ることはありえない。
この振り方は千住ではあと千住三丁目の本氷川神社だけである。

社格も高く千住では一番高い府社である。
ちなみに次に高い千住神社は郷社である。
ましてそれ以外の神社は大部分が村社か無格社である。
そのため戦前は千住地区の全神社を統括する神社だったと言われる。
現在は社格が廃止されたので全て独立になっている。

コラム
社格について
社格は中世以前のものと明治期のものとがあるが最近まで行われていた明治期のものについて述べる。
最も高いものが大神宮でありこれは伊勢の内宮と外宮だけである。
次が大社でこれは最新が皇族又は皇室の祖先を祭ったものを官幣社それ以外のものを祀ったものが国幣社
とされた。以下中社・小社の順に定められた。
この外に別格社というのがあってほぼ大社と同格に扱われた。別格官幣社とされた靖国神社のことである。
その次に地方で尊崇の厚い重要な神社から順に
府県社(所在地が県なら県社・府なら府社:東京は当時東京府だったので府社である。)
次に郷社(ほぼ郡程度の広さに一つ明治期の郡は江戸時代の郡より小さい)
次に村社(ほぼ明治期の村程度の一つ。江戸期の村の5~6倍の規模になる。)とされた。
そしてその下に無格社(下記の統廃合を免れたかつての鎮守や特別な祭神を祀ったもの)が置かれた。
ここまでが国家神道の範囲で神主は全て官吏(今の国家公務員)とされた。
少し有力な鎮守の多くは村社であったがほとんどの社は無格社であった。
明治の初めこの制度が導入されると多くの鎮守が統廃合の憂き目を見た。
江戸時代規模の村では鎮守を失ったものもかなりあった。
資料上はこの外に登録不能の小祠と言う項目があるが具体的にどれがそれに当たるか不明である。