関東大震災


ここでは千住の町の関東大震災の被災状況を書きたいと思います。
概況
関東大震災は皆さんご存知の通り大正12年(1923)9月1日に相模湾を震源として発生しました。
震度が最大級になったのはもちろん伊豆半島方面、相模湾岸方面で
たとえば熱海線の根府川駅が到着した列車もろとも山崩れによって相模湾の海底に葬られてしまったり
発生した津波によって鎌倉市の一の鳥居より海側は何もなくなってしまったりしました。
それより遠い地方は震度はもう少し低かったはずですが横浜市・東京市などは軟弱地盤の上にあるので
建物の倒壊が数多く起こりました。
被害を最大にしたのは倒壊した建物より発生した火災(二次災害)で消火できず拡大してゆく火事に逃げ惑う人の混乱が
さらに被害を拡大しました。横浜市中心部はこれで全滅しました。
東京ではさらに被害を大きくする三次災害として旋風または竜巻が各地で発生しました。
火災による上昇気流から派生したもので熱風が酸素を奪いそれに襲われたところは高熱無酸素状況となり
多くの窒息死者を出しました、典型的な例が本所被服廠跡の避難所で起こったことでした。
従って大規模な火災にならなかったところは大きな被害にはなりませんでした。

さて千住です
もちろん当時は耐震性の乏しい木造住宅が圧倒的でした。
そのときの惨状を当時の写真帳(大震災千住町写真帳、千住町編集)から抜き出して見ました。

右の写真は上は
千住町二丁目赤門前旧道の写真です中央の西洋料理の看板
はよく使われる祭礼の写真に見られるもので今日の
柏屋そば店のやや南と思われます。
下の写真は千住5丁目のものでこの地の被害が最も多かった。
と記されております。
現在のどの位置に当たるかは定かではありません。
これらの写真から本町地区中心部の様子がよくわかります。

亀有方面で起こったような土地の流動化による
沈み込みとか家屋の転覆とかは千住では起こらなかったようですが
木造建物の倒壊によって交通が遮断された様がよくわかります。
また鉄筋鉄骨の建物と違って取り片付けやすく
再建もしやすかったのです。

ここで火災が起きなかったので千住は都心を
襲った惨禍を免れました。
火災の発生件数は3件ありうち2件は消防隊の
活動によって延焼は止められたが、
日本製靴より出火した火災は工場のガス
その他の薬品等に引火し
翌日の午前2時まで鎮火にかかったそうです。
この火災の鎮圧は千住町の安危にかかわることで
その成功は被害を震災による直接被害にとどめたことです。
千住町消防隊の成果はいくら賞賛してもしたりないほどです。

左の写真は上は
東武鉄道の綾瀬橋以西の状況とあります。
おそらく今日の堀切駅付近かそれよりやや牛田よりか
と思われます。
地盤が沈下したようだと書いてありますが
荒川放水路の工事によって路線付け替えの終わったばかりの時期に
当たりますので
おそらくまだ固まっていない地盤が崩壊してしまったのでしょう。
写真中央部で線路が宙に浮いています。

下の写真は綾瀬橋付近の状況とされています。
現在の鉄橋になる前の木橋が写真右側に写っています。
堤防は地割れを起こし被害が大きかったことを
表しています。

またその風景からこの地域が全体に
牧歌的雰囲気を感じ市街化がここまで進んでいなかった様子も
見て取れます。

このように市街地が継続していなかったことも
大きな被害を出さなかったことの一因かも知れません。




次の写真は上が
まだ通水前の荒川放水路にかかった東武鉄橋です。
後ろに見えるのが常磐線の鉄橋です
説明には
東武鉄橋の被害はかなり大きく
十数日間はこれを使えなかったと書いてあります。
上の写真の状況と合わせて東武線の
被害はかなり大きく復旧にかなりの日数がかかったことが
知られます。

下の写真は崩壊した
小菅刑務所の外壁の写真です。
結構な部分が崩壊したようで
政府は陸軍の出動を要請して警備に当たった旨の
記述があります。

治安の維持には陸軍が出動し
関東各地に駐留していた部隊がすぐ
都内に入り警備に当たったといいます。
その一部がこの地の警備に回されたのでしょう。


さて最後の写真はこれです。

上の写真は日の出町の清亮寺です
境内手前の山門かと思われる建物が
倒壊しているのが見て取られます。
後ろは常磐線の鉄橋である旨の
記事があります。

下の写真は南千住の大踏切より東京市を望む
とあります。
今の南千住駅の脇の立体交差の位置です。
南千住の境から南は
一望芝浦まで灰燼に帰した
ということです。
確かにすぐ先にはもはや市街地は見えません。

これを見ても
千住の地がいかにこの大災厄において
被害を最小限に食い止めることが出来たか
これは幸運もあったでしょうが
当時の住民の努力もまた大変なものであったと
察しられます。

またこの写真帳自体震災に際して
出動し復旧に当たった人々の功績を
顕彰するために編纂されたものでした。

震災直後の災害復旧については
南足立郡と千住町でてがけたのですがただちに在郷軍人会・青年団・郡医師会に協力を要請し
町内各地に救護所を19箇所設置し10月31日まで縮小しながら食料その他の救護を行った
市内より逃れて千住に来た避難民は十数万人に達していたと記録されています。
この間供された食事は255万6千食に上ったとあります。
また医師会の救護所は10月14日まで運営せられ治療を受けた者は5563人に及んだそうです。
この間外部の援助として何と徳島県の救護班が来てくれたそうです。
医師6名看護婦22名薬剤師2名その他10名総勢40人から成り9月12日〜17日の間
治療に当たってくれたということです。304名の患者を診療し284件の患者を巡回診療したといいます。
資料には感謝を込めて特筆大書されていますが今では知る人も無いので
改めて掲載させていただきます。

平成16年(2004年)は全世界的に災害の多かった年で国内での新潟地震海外でのスマトラ沖地震による津波
が特筆されます。
そんな時大正12年にわが町を襲った大災厄に先輩たちがどのように対処したか
どんな被害を受けたのかを改めて知ることに意義があるのではないでしょうか。
もし起こった火災が食い止められなかったら千住も市内と同じく一望の焼け野原になっていたかもしれません。
また青年団を始めとして幾つもの組織された団体が積極的に救護所の運営を
引き受けたようですが今日そのような団体がいくつあるのでしょうか
ボランティアで今日多くの人が来てくれるようですが大正の時代に徳島県が
救護団を派遣してくれそれが千住に配置されたということもまたありがたいことで今後このような事態があったとき
きちんと配置できるのでしょうかとかとかいろいろなことが思われる昨今です。