勝専寺(赤門寺)

千住2丁目にあるこの寺院は千住の名の起りともなった千住でもっとも古い寺院です。
正式には三宮神山大鷲院勝専寺といいますが
その山門が格式の高い赤門である事から
赤門寺の名で通っています。
鎌倉時代の文応元年(1260)
新井兵部政勝によって開基せられ
勝蓮社専阿上人により開山されました。
上人は武蔵国の住人甘粕太郎忠綱の三男
父が日吉八王子の戦いに討死したので
その追善のため13歳で出家し
浄土宗を開いた法然上人の弟子
弁阿上人のもとで修行されたそうです。
法然上人には孫弟子になりますが
直接教えを聞いた事も多かった事でしょう。
その後関東に下り浄土宗の関東布教の
拠点のひとつとしてこの寺を開いたのです。
開山した時計算すれば既に82歳になられていたようです。
弘安6年(1283)105歳で入寂されました。

さて開基した新井兵部政勝の父
新井図書政次が隅田川から引き上げた仏像が千住の名の起りの一つ
といわれる千手観音立像で足立区登録文化財になっています。
引き上げた年は嘉暦2年(1327)とされていますがもちろん間違いです。
伝説は浅草の観音様の伝説と同工異曲でこのような話が好まれた歴史が伺えます。
現在は内陣の裏にお祀りされています。

上の写真の本堂は明治39年(1906)の建立で
コンクリート造で化粧レンガで覆われています。
江戸時代の資料に参道入り口に描かれていた地蔵・観音は本堂の上へ上がり
地蔵・観音の両菩薩が山門に向かって建っているという
極めて独特の様式で建設当時多くの人に驚かれたというのも無理ない話しです。

最近新築されたこれも斬新なつくりの庫裏とうまくつなぎ合わされて
1世紀を経ていてもいまだに他の寺院と違う独特の雰囲気を醸しています。
ご本尊は浄土宗の例のとおり阿弥陀菩薩です。

次に山門はその名のとおり赤に塗装され
この寺院の格式の高さをうかがわせます。
江戸時代には2代将軍徳川秀忠公の鷹狩のご休息所になり
その後も家光公のときには御茶屋をその境内に営まれ
家綱公の時にはそれが御殿となり
日光社参の折には数日滞在されるなど
幕初においては大変重用されました。

その後も日光門跡の宮殿下が日光への往復の都度
お泊りになり本陣の代用とされました。
当寺が都合の悪い場合は源長寺(仲町)慈眼寺(一丁目)
誓願寺(南千住)などへお泊りになったといいます。
幕末には当寺境内にそのための御殿の建築の計画
もあったようです。
幕末に建てられたこの山門に掲げられている
三宮神山の扁額
明治12年の製作で明治天皇陛下の
当寺ご巡幸を記念して掲げられたものです。
これも足立区の登録文化財に指定されています。

鐘楼は当初安永4年(1775)に建設され千住地区の時の鐘として
役立っていましたが明治に入って破損し明治24年(1891)再建したと
基壇に埋め込まれている(写真の左側がそれです。)
「鐘楼建築記念碑」に刻まれています。
ちなみに撰文は朝鮮の革命家で当時
日本に亡命していた金玉均で揮毫は中根半嶺です。
この時の鐘は昭和20年(1945)戦時中の
金属供出で失われたため
長く鐘楼だけになっていましたが昭和34年(1959)
檀家及び地元有志の募金で再鋳されました。
この寺院は当家の菩提寺なので当家及び一族の家も
協力しその協力者名は鐘楼の欄干に刻まれました。
現在は建物の高層化によって遠くまでは響きませんが
朝晩と除夜の鐘を撞き地域の人々に親しまれています。

閻魔大王堂には寛政元年(1789)に開眼された
「閻魔様」が鎮座されています。
この像も足立区の登録文化財に指定されていますが
1月15・16日と7月の同日に年2度開かれる縁日
で親しまれています。
かつては仲町の地蔵様の縁日のほうが盛んだった
と聞きますがそちらは戦後再開されず
現在はこの閻魔様の縁日だけが行われています。
当日は閻魔堂が開帳され
閻魔様には商人中の供物が飾られ
線香の煙がみちみちます。
境内のみならず旧街道からの参道
駅前通りからの西裏通りも
露店がぎっしり並び年2回の楽しみを提供しています。
閻魔堂はかつては黒柱に白い漆喰壁だったのですが
平成19年に修築され周辺と同じく化粧レンガを
外壁に配した周囲と調和する意匠に変更されました。

正面の香炉には将軍家葵紋が刻まれています。
当寺の紋章は法然上人の抱き茗荷紋と将軍家葵紋を二つ並べた
連紋を用いています。

この外古い建築物としては馬頭観音堂が平成館脇にあります。
かつては本堂左側にあったこのお堂は境内整備に伴って
現在地に移動しました。
馬頭観音は宿場の運送業者の守護神として知られ
この地がその意味でも繁栄していた事が知られます。
他に単独の馬頭観音堂が千住東町の商店街に見られます。
その前の植え込みには千住七福神会の毘沙門天があったのですが
これは昨年(平成19年)七福神返上とともに
八幡神社に移設されました。
当寺の毘沙門天は阿弥陀如来の四天王の一つで
大変精悍な像で御本尊の脇にあり
今も変らずご本尊をお守りしています。

当寺について子供の頃からの思い出に尽きないものがあり
今平成館になっているところはかつては
児童公園だったとか、そこに縁日の時はお化け屋敷が出たとか
鐘楼の下はボロ市をやる場所だったとかいろいろあるのですが
今回は割愛します。

また勝専寺の名は開山の頭文字をとったものであり
室町時代の文書には千住は専住村と呼ばれるなど
江戸時代以前においてこの寺院の影響が大変大きかった事が知られます。

近年も潤徳学園の設立に土地を提供するなど
千住の町にとって大変大きな貢献をしていることを記して
終わりたいと思います。