千住を通る諸街道

 このページでは千住を通る諸街道をそのルートに沿って
追っていってみようと思います。
 街道は先へ行けば次々と枝分かれしていきます。それも可能なところでちょっとよってみたいと思います。


日光街道
さて日光街道は今でこそ周知の街道ですがこれはかなり新しい街道なのです。
徳川家康が江戸城を出撃して上杉討伐に向かったときはこの街道はまだありませんでした。
そしてその徳川家康がなくなると安国院殿の院殿号を賜ったあと、さらに神号を申請しました。
かつて豊臣秀吉が豊国大明神の神号を得ていたのでこれが得られなければ豊臣家の
下風に立つわけでそのようなことはありうべからざることでした。
しかも後発の大明神では困るとのことで東照大権現の号を賜りました。
なくなって暫くの間は亡くなった静岡の久能山に神宮を立てて祀られていましたが
幕府の最高顧問だった天海僧正の日光に東照宮を建設し上野に江戸鎮護の寺院(寛永寺)を
建設しその門跡に親王を迎え日光と上野の両方を監督せしめ且つ緊急の時には幕府が擁する皇族として
活動できるようにしたいとの案が通り、それぞれが建設されるとそれを直線で結ぶ街道が建設されることになりました。
これがつまり日光街道です。

従って日光街道は従来の街道と重複している部分も多いのですが新設された部分もたくさんあります。
千住の近辺で言えば橋場〜南千住間・南千住〜粕壁間は全て新設されたものです。
奥州街道との重複は起点の日本橋から宇都宮までがそうなっています。
これが5街道なのに4宿ということの答えにもなっているわけです。
また上野の宮(寛永寺の宮)が日光へ行くための道でもあったので上野〜南千住間も新設されました。

次に日光へ向かう道はみな日光街道と呼ばれました。
早くは日光御成り街道があります。これは日光街道が一般人の旅行を認めたため警備上の問題が生じたので
将軍専用の街道を日光街道の西側に築き警備をやりやすくしたということです。
また物資輸送で街道の容量が不足するのを恐れて東側にも日光東街道という街道が作られました。
これらはみな栃木県にはいると合流するのですが
そのほかに京都から東照宮に来る勅使・院使のために中山道から分かれて直接日光に向かう街道が指定されました。
これが日光例幣使街道です。そしてこの街道と本街道を結ぶために造られたのが日光西街道です。(別名壬生廻り)
また東北地方からの使節が宇都宮を通ることなく日光へ入るための道が日光北街道と呼ばれました。
日光に達する手前今市から北方へ延び会津若松に達する道が会津街道ですがこれはまた会津家が
緊急時に日光を守りまた関東へ進出するための道でもありました。それで日光裏街道とも呼ばれました。

これらの道をひとつずつたどってみたいと思います。
  

奥州街道
奥州街道は江戸から白河までは五街道の奥州道中として知られ白河以遠青森県の三厩までは脇街道の奥州街道として知られます。
ここでは通して奥州街道として扱いたいと思います。
江戸から千住を経由して宇都宮までは日光街道と同じ経路を取ります。
しかし一般に江戸から浅草を経由して千住までを奥州街道といい
上野から千住までを日光街道といっていたような話も良く聞きます。
当初は浅草方だけだったので疑問は無かったのですが、つまり正式には両街道はこの部分を併用しているということです。
後に上野方の道が開かれるとやがてこちらも正式の路線と成りそしてそこは日光の宮が主に使ったことから日光街道といわれるようになったようです。

この奥州街道は平安時代には東山道といった栃木以北に鎌倉時代の鎌倉街道の春日部以北をつなげ前述のようにそれ以南を新設したものです。
そして日光街道と同様に幾つかのわき道がありましたそのひとつが奥州中街道といわれた先の日光東街道のもうひとつ東側を廻る道です。
また明治維新が終わるとこの街道は陸羽街道と改称され後に国道4号線となりました。
しかし陸羽街道の名は出羽へ通じていないなど、実態を反映していないので無視しようと思います。公式には戦後まで使われたようです。
この街道は福島県へ入ると羽州街道というもっとも大きな分岐を出しさらに多くの街道を枝分かれさせながら
三厩に達します。ここから船で松前へ渡るとその先は東西の蝦夷道となり千島樺太にまで続いていきました。
これらについても見て行きたいと思います。

水戸街道
水戸街道は水戸佐倉道ともいい江戸時代脇街道の扱いでした。
水戸方面へは千住で分岐したあと松戸、柏、土浦を通って水戸に至ります。
佐倉道はその松戸で分岐して市川へ出て海岸を進み今日の京成電鉄の本線にそって佐倉にいたりました。
水戸はもちろん副将軍の水戸藩がありその連絡のための幹線でした。
水戸からの諸街道は各方面へ放射状に広がりました。
海岸に沿う浜街道が最も古くからの道筋で今日では国道6号線になっています。
水戸街道と浜街道を併せて明治維新後は陸前浜街道と呼びました。
この名も陸前の部分が少ない(ほとんどない)この道にふさわしいとも思えません。
他に棚倉へ抜ける次に古い道筋があり、また今日の水戸線に沿う街道もあり放射状に広がる拠点が水戸でした。
佐倉は譜代の雄藩で多くの老中を輩出した名門です。
この道もこの先成田へ結び成田道とも呼ばれました。
また途中から房総半島へ行く街道がわかれて行きます。
これらの街道についても辿って行きたいと思います。

下妻街道
千住を基点とするこの街道は異説のある幾つかの経路を取りますが
千住、草加、越谷、野田、岩井、水海道、下妻とする経路をこの場合とります。
下妻以遠は下館、から栃木県に入り前に述べた奥州中街道と同じ経路で喜連川へ至ります。
この街道は脇街道より格下で宿駅の制度は厳格には実施されていません。
でも千住の宿の中央を抜けていく街道はこの街道ですし
それ以前徳川家康が上杉景勝討伐に出征したのもこの道でした。
十分探求する価値のある街道です。

赤山街道
この街道は千住から分かれるわけではなくて竹ノ塚の増田橋立場から分かれます。
この地域の天領の郡代役所があったのは川口市の赤山だったので
その赤山陣屋(伊奈氏)へ行くための道でした。今日でも舎人方面を抜ける
主要な道路となっています。一応当って見るかなというところです。

そのほか多くの道が千住を経由しますがそれらは街道ではないのでここでは扱いません。
例えば大師道、熊谷道、などが著名です。