千住の建設  その壱

千住を取り巻く河川堤防の整備

徳川家が江戸の城主となると江戸中心の交通網の建設が急がれました。

全ての道は江戸城から出発するべきでした。

それで鎌倉室町時代の交通路、街道・宿場・港・渡し場・橋、全て見直されました。

江戸城、城下町の建設と連動してこれらの工事も進められました。

千住は北方への要衝と認識されました

最初の建設は千住大橋の建設で前に述べたとおりです。

 

この頃石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね:右の肖像)という人がいました。

千葉氏の一族で遠州の出身と云いますが1592頃本木村にきたそうです。

本木は前項で述べた通り中曽根城の城下、千葉氏領淵江郷の中心地でした。

しかし千葉氏滅亡後恐らく急速に衰退へ向かっていたのでしょう

1598(慶長3)掃部新田開発の許可を受けると熊谷堤と橋戸の微高地との間にあった湿地の開拓を始めました。

これが今日の仲町となった部分です。1610年には源長寺そして仲町氷川神社をそれぞれ創建しました。

 1616 (元和2)開発の目途がつくとその部分を囲い込む堤を築きました。これが掃部堤です。

今日の関屋の足立郵便局前から北千住駅前通りとの交差点までの墨堤通りがこれです。

以前はもっと高かったのですが道路の拡幅に合わせて削られて今の姿になっています。

石出吉胤はその功績によってこの地の名主に任じられ堤の完成(1617を見て1618になくなりました。

 

これに合わせて南側の堤防も整備されました。それまでの低い川に沿った砂尾堤の内側に

今の言問橋から小塚原に至るその上に奥州街道を乗せる堤防と、

真土山から三ノ輪に至る山谷掘をはさんだ2本の堤防が元和6年(1620)に台命(将軍の命令)により建設されました。

山谷掘をはさんだ堤防は日本堤と呼ばれました。この名前は台命によったからとか2本目の堤防だからとか言われます。

下の図は江戸名所図会から山谷掘が隅田川に注ぐ今戸橋付近の図です。

江戸を水害から防ぐ決め手として建設されましたが、新吉原への道としての方が有名になりました。

 

一方北のほうでは利根川の付け替えが進んでいました。

利根川をまず渡良瀬川に落として次いでさらに鬼怒川に落としました。

この大工事によって利根川は東京湾ではなく太平洋に注ぐようになったのです。

下流では渡良瀬の河口部分はそのまま江戸川となり利根川の流れのかなりを引き受けました

本来の利根川は一旦干上げられその他の小さい川の流れを寄せ集める排水専用の川になりました。

これが古利根川です。その下流は今日の中川として整備されました。

そして亀有から隅田までの下流は細流として残され古隅田川と言われました。

いまの足立葛飾の境界はその細流の中心線からなっています、ずいぶん大きく蛇行していたことがわかります。

古利根川に注いでいた綾瀬川は利根川を干あげる都合上別の水路が必要となりました。

こうして今日見られる直線の水路が掘られたのです。またこの部分も旧考録から引用しておきましょう。

 

綾瀬川掘割は元禄12年綾瀬の里より葛西に掛り、

千住隅田村境にて荒川に入り、

牛田より隅田のあいだに橋をわたし綾瀬橋と云。

これらの土木工事は江戸を水害から守り、荒川の氾濫を抑え且つ銚子方面から江戸湾への

輸送路を確保する。さらには北足立にあった見沼を埋め立てそこから南足立に至る用水路を整備する

と言う工事も引き続いて行われました。これらの一連の工事によってこの地方の環境は飛躍的に向上し

南足立一円は江戸時代を通じて低湿地から沃野へと景観を変えていきました。

 

今回は土木的な面に終始しましたが次回は宿そのものの建設に入っていきます。