千住酒合戦

文化12年(1815)に問屋場の前の飛脚宿の主人であった中屋六右衛門の還暦を

祝って酒合戦が行われました。

これはいわば酒の飲みくらべで誰でも参加でき立会人には当時の著名文化人が何人も

参加したのでその評判はとても高いものになりました。

かつて慶安のころ行われた川崎大師河原の酒合戦の故事にちなんでは居ますがこちらは

一大イヴェントとして企画されたようです。

かつての酒合戦の時の記録が水鳥記といわれたのに対して立会人の太田南畝が書いた記録は

後水鳥記と云われました。水鳥とはもちろん酒の偏と旁を分けて書いただけのしゃれです。

ここではあまりに有名なこのイヴェントを紹介するのにこの後水鳥記を引用して味わってみようと思います。

後水鳥記

文化十二のとし亥霜月二十一日、江戸北郊千住のほとり中六といえるものの隠家にて酒合戦の事あり、

門にひとつの連をかけて、

不許悪客(下戸・理屈)入庵門

としるせり、蜀山老人の書なり、玄関ともいふへき所に袴着たる者五人、来たれるものに、

各々の酒量をとひ切手を出して休所にいたらしめ、案内して酒戦の席につかしむ、

白木の台に大盃をのせ出す、その盃は

江島杯(五合入)鎌倉杯(七合入)宮島杯(一升入)万寿無量杯(一升五合入)

緑毛亀杯(二升五合入)丹頂鶴杯(三升入)

おのおのその盃の蒔絵なるべし、于肴ハ台にからすミ花塩さされむめ等なり、また一ツの台にハ、蟹と鶉との焼鳥を盛れり、

里の鯉の切目正しきに、はたその子をそへたり、是を見る賓客の席は、紅氈を敷青竹をもて界をむすへり、

いハゆる屈龍公文晁、鵬斎の二先生、其外名家の諸君子なり、唄女四人酌とりて酒を行ふ、

○言慶といへる翁ハ齢六十二なりとかや、酒三升五合あまりを呑ほして、坐よりまかり通新丁の秋葉の堂にいこひ一睡して家にかへり、

○大長と聞へしは四升あまりを尽して、近きわたりに砕臥たり、次の朝辰の時ばかりに起て、

又ひとり一升五合をかたむけて酔いをとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん、

○掃部宿にすめる農夫市兵衛ハ、一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を、三ツはかりかさねて呑しか、肴には焼る蕃椒ミつたりき、

つとめて叔母なるもの案しわつらひてたつね往しに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にうちくへてめしけるもおかし、

○是も同じ辺に米ひさく松勘といへるハ、江島の杯より呑はしめて、鎌倉宮島の杯と尽し、

万寿無量の盃にいたりしが、いささかも酔いしれたるけしきなし、此日大長と酒量をたたかハしめて、けふの角力の最手占手をあらそひしかハ、

明年葉月の再会まてあつかりなためて置けるとかや、その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり、

○小山といへる駅路の佐兵衛と聞こえしハ、二升五合入ルといふ緑毛亀の杯にて三たひかたむけしとそ、

○北のさと中の町にすめる大熊老人は盃の数つもりて後つゐに万寿の杯をかたふけ、其夜ハ小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそひしときく、

     浅草三くら町の正太といひしハ、此会に趣んとて森田屋何かしのもとにて一升五合をくミ、雷神門前まで来たりしを、その妻おひ来て袖引て止しを、

いふとてすまひけれハ、其辺の者侠客の長とよハるる者、来なためて夫婦の者をかへせしか、あくる日正太千住に来りて、昨日の残り多きよしをかたり、

三升を升呑にせしとなん、

     石吉ときこへしハ、万寿杯をのミほして酔心地に大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき、

     大門長次と名たたる男ハ、酒一升、酢一升、醤油一升、水一升とを三味線のひひきに合せて各々かたむけ尽せしも興あり、かの肝を鱠にせしと

いひしことく、これハ腹を三杯漬とかやいふものにせしにやといふへし、

     ばくろう町の茂三ハ、緑毛亀をかたふけ、

     千住にすめる鮒與といへるも、同し杯をかたふけ、終に客をもてなして、小盃の数かきりなし、

     天五といへるものハ、五人とともに酒呑てのミかたきハミなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし、

     唄ひ女おいく、おかのハひねもす酌とりて、江島鎌倉の盃にて酒のミけり、

     其外の女のかたにハ大満屋の美代女万寿の盃をくミ、酔人をたすけ得て、ミつから酔る色なし、菊屋のおすミハ緑毛亀にて呑、おつたといひしハ、

鎌倉の杯にて呑、近きわたりに酔臥けるとなん、此外酒を呑といへとも、其量一升ともミたさるハ、はふきていわす、

     文晁鵬斎の二先生ハ、ともに江島鎌倉の盃を傾け、小盃のめくれる数をしらす、帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしか、今日の

賀延に此わたりの駅夫とも、樽の鏡をうちぬきひさこをもてくミしかは、駅夫のわつらひあらん事おそれしに、はたしてミな酔ふして輿てものなし、

     この日調味の事をつかさとれる太助といへるハ、朝より酒のミて終に丹頂の鶴の盃を傾しとなん、

     一莚の酒たけなハにして杯盤已に狼藉たり、門の外面に案内して来るものあり、たそと問へハ会津の旅人河内何かし、この会の事を聞て旅のやとりの

あるじをともなひ推参せしといふ、即席にのそミて江島鎌倉より始て、宮島万寿をつくし、緑毛亀まて五杯をのミほして猶丹頂の盃の

いたらさるをなけく、有あふ一座の人々きもをけして是をととむ、かの人のいふ去かたき所用ありて明日は出たらんとすれハ力及ハす、あハれあすの

用はなくハ今一献つくさんものをと一礼して帰りぬ、

人をして是をこの日文台にのぞミて酒量を記せし者ハ二世平秩東作なりしに、むかし慶安二のとし大師河原池上太郎左衛門底深かもとに、大塚ニすめる

北黄樽次といへるものむねとの上戸を引くしおしよせて酒の戦せし時、犬居目礼古仏座ニいふこの水鳥記にミえたり、

ことし鯉隠居のぬし来りてふたたびこの戦ひを催すしたるままに犬居目礼古仏座礼失求詣千寿野といふ事を書贈りしかハ、其日の掛物とハ

せしときこえし、かかる長鯨の百川をすふ如き、はかりなき酒のともから終日しつかにして乱に及ハす、また礼儀をうしなハさりしハ、上代

にもありかたく末代にも又まれなるへし、これ会主中六といへるものの、六十の寿賀をいわひて、かかる希代のたハむれをなせしになん、

かの延喜の御時、亭子院にみき賜りし記を見るに、其選に応するものわつかに八人、満座酩酊して起居静ならず、あるハ門外に僵臥し、

或ハ殿上にゑもいハぬものつきちらして、わつかに乱れさるものハ、たた藤原伊衡一人にして、駿馬をたまハりて賞せられしとなん、

かれハ朝廷の美事にして、これハ草野の奇談なり、今や墨田川の流つきせす、筑波山の茂きみかけをあふく、むさし野のひろき御めくミハ、

延喜のひしりの御代にも、たちまさりぬへき事、この一巻を見てしるへきかも、六十七翁蜀山人稲林楼上にしるす。

 

 

後水鳥記いかがでしたでしょうか。江戸時代のやさしい古文ですが現代文とはちょっと違います。

あえて訳さず略さず当時の雰囲気を見てもらいたかった次第です。ただあまりにも読みにくい面もあり参加者一人ずつのへの

コメントの前には○をつけました。漢字は現代の書体にしました。同字点は仮名を重ねました。片仮名の混入や濁音の清音表示はそのままです。

原文は足立区教育委員会の近世地誌史料集からとりましたが吉川弘文館の日本随筆大成にも収録されています。

 

翌々年文化14年5月25日に掃部宿の源長寺において

高陽戦飲の再戦を催した。この会は旧考録に収録されているが

其の書き方を見るに芸術品の品評会的性格の会になっていったようである。

源長寺は将軍様鷹狩の休憩所になっていたので、この時の掛け軸等を

御覧になった13代将軍家定(当時の名は家祥)公がお気に入りになり

次に来る時も掛けるようにとの御意を残されたので主催者で作者の

山崎鯉隠はおおいに面目を施したとかかれています。

 

また旧考録の中六酒合戦の項には参加した諸先生のプロフィールや

蜀山人の和歌(狂歌)や亀田鵬斎の漢詩も収録されておりますが

此処では割愛します。

 

図版は一番上の絵が千住酒合戦図高田與清「擁斎漫筆」よりとされています。

次の大杯は三升入りの大杯「都鳥」とされています。江戸四宿実行委員会

発行の「江戸四宿」のp156写真92です。酒合戦に用いられたとされて

いますが上記のとおり三升盃は丹頂鶴のデザインであったはずだし再戦の

時の三升盃は記録されていないので不審です。

一番下この右にあるのはこの時の見立て番付です。同じく「江戸四宿」の

p155写真91です。是は千住の「大はし」所蔵の物だそうですが他にも

国会図書館蔵版とか何枚も残っているようです。この見立て番付は現在でも

時々見られますが当時はあらゆる物に応用されていたようです。

多く呑んだ順に大関以下東西に分けて書かれています。中央には勧進元

中六隠居 世話役鯉隠居などの名が見られます。