日光御門跡の千住宿泊
徳川家康公が征夷大将軍に任じられ幕府を江戸に開いて今年で400年になります

 

家康公は大御所として静岡(当時の駿府)でなくなられ久能山(今の日本平のそばです)に葬られた後

日光に改葬されました。仏教式の戒名安国院殿のほかに神として神式の東照宮の名を賜りました。

当然日光には東照宮が建てられその神宮寺として輪王寺が建てられました。

江戸時代には寺院の方が神社を管理したのでこの一連の施設は輪王寺の管理下に置かれました。

一方江戸城の鬼門に当たる方角に鎮護の寺院の必要が幕府の宗教顧問の方から出ておりました。

そこで上野に鎮護のための寺院が造営されました。これが寛永寺です。

この寺院は京都の比叡山延暦寺に対するものとして東叡山と呼ばれました。

今の国立博物館のところに根本中堂が建てられ延暦寺の様式に従って建設され不忍池を琵琶湖に見立てたそうです。

延暦寺は信長に廃止されようやく再建が許可になるかという時でしたので天台宗の代表である

天台座主は京都の皇族が門跡を勤めている寺院で回していました。

そこでこの東叡山も皇族を門跡に頂き京都にも別院(大津の滋賀の院)を持ち天台座主をも出せる格式としました。

この門跡は輪王寺も管理したので寛永寺、滋賀院、東照宮、と合わせて所領は十万石を越え中級の大名並みの規模を持ちました。

代々の天皇の皇子または養子が法親王の宣下を受け門跡に就任したのでその地位はとても高いものでした。

別名を日光御門跡といわれるように東照宮を供養する事が重大な仕事だったので年に三回約一ヶ月づつ日光へ出かけました

このとき千住で御泊りになるのが恒例とされたので千住宿にとっては大きな行事でした。

 

行きは4月12日、9月7日、12月25または26日

帰りはそれぞれ5月24日、9月24日、翌年の1月24日

と決まっていました。

 

通常は本陣に御泊りになるのですが本陣がつかえないときは一般の脇本陣ではなく寺院がそれに指定されました

多くは二丁目の勝専寺がそれを勤めたようです、寛永年間、延宝年間、文化年間に使われたようです。

ついで掃部宿の源長寺、さらに中期以降は二丁目の慈眼寺(昭和の始めまで一丁目の裏側の西耕地は二丁目の持分でした)が多かったようです。

これらの負担はとても大きかったので幕末の嘉永2年に御門跡専用の旅館の造営が宿有志より願いだされ

嘉永6年にその許可が下りたと旧考録にあります規模は間口7間半奥行20間(約14m×36.5m)だったそうですが

江戸幕府の瓦解まであと15年というこの時期にこの屋敷が作られたかどうかはわかりません。

 

東照宮は将軍家葵紋を寛永寺と輪王寺は法親王家の十六弁菊花紋

それぞれ御紋章にしておりました。

なお日光二社一寺のもう一社、二荒山神社は左巴紋とあります普通は右巴紋なので

逆転しているのか日光へ行ったらもっとよく見てこようと思っています。

二荒山の音読みが日光で訓読みが神社の名前「ふたらさん」になります。

上の紋が将軍家葵紋、下の紋が十六弁菊花紋です。

 

 

高僧の往来や勅使、院使の宿泊の時にも寺院はその本陣として用いられたようで

五丁目の安養院、南千住の誓願寺なども御用を務めたようです。

 

 

このように千住の多くの寺院は宿場と一体になり多くの貴賓を接待した実績がありました。

 

ここに使った家紋については以下のサイトより使わせていただきました。