奈良時代の千住

奈良時代にはまだ千住は形成されていませんでした。

下の地図はその頃の様子を図示したものです。

(手作りなのでやや見苦しいのですが)

きちんと発掘されまたは検証されているわけではないので

概念図とお考え下さい。

この図を説明しますとまず海は今よりずっと内陸まで入っています。

多摩川は今と同じですが江戸川は、当時は渡良瀬川の下流で大きな水量を持つ川でした

足立区の南端、今の鐘ヶ淵付近で現在の隅田川は足立葛飾の境界を下ってきた利根川と合流します

利根川はまた武蔵下総の国境をなしていました。

国道は当時官道と呼ばれ最初は府中市にある武蔵国府から市川市にある下総国府を結ぶ

連絡路として建設されました。

途中の駅は二つ乗瀦(のりぬま現在の杉並区天沼)と豊島(としま現在の北区西ヶ原・上中里)でした。

幅員9メートル、沼沢地では土手の上に築かれ、ただ一直線のこの街道は

当時の東国の人々に朝廷の権威を示す良い象徴だったと考えられます。

千住近辺では今日の上中里付近に作られた豊島駅を出た後方向を南東へ変え利根・入間合流点の少し南で

利根川を渡り(今日の白髭橋付近)ひとえに市川の国府台を目指しました。

官道上には駅以外の施設は無かったのですが渡船場は水駅といいここは2隻(後4隻)の渡し舟が常備されたそうです。

その名残が今日の石浜神社(南千住)で神亀元年(724)の創建になります。

石浜の地は橋場とも呼ばれ東京都へ編入される前は

北豊島郡南千住町大字地方橋場字元宿と呼ばれこの地が古代以来の宿場だった事が知られます。

 

これらの土地は皆中世まで歴史上の最重要拠点となるものです。

上中里の豊島駅は豊島氏の根拠地となり戦国前期まで重要な戦略拠点でした今日の平塚神社の付近です。

石浜の地は長く渡船の拠点となり南北朝時代にはここで戦われた石浜の戦いが知られています。

市川は万葉時代から著名の地でしたが戦国時代には里見対北条の国府台合戦の舞台となりました。

 

ここでは官道の変遷を少し述べて終わりにしましょう

始め武蔵は東山道に属しており群馬県のほうから下って府中へきていた本道(東山道武蔵支線)

武蔵が東海道へ移管されると廃止されました(府中より北へ延びている線)

そして相模の国府(小田原市付近国府津)より来ていた国府間連絡路が

本道(東海道武蔵支線)に格上げされました。(府中より南向きの線)

次に東海道の本道が房総半島周り

(小田原から海岸に沿って横須賀に至り海峡を渡って海岸に沿って北上し市原市(上総国府)

に至り千葉市付近を抜け印旛沼の東で鬼怒川(現利根川)を渡り石岡市(常陸国府)に至る経路)

を廃止し武蔵下総経由常陸につけかえられると

小田原府中間は支線から本線となり府中市川間も国府間連絡路から東海道の本線になりました

その後市川から千葉市付近へ出るのではなくまっすぐ北上し松戸市付近

へ出て常磐線のルートに沿って行く今日のルートに変わりました。

また豊島より手前も海岸線に沿って大井町に至り今日の東海道経由のルートに

平安時代半ば以降は変わっていったと考えられています。

と言う事は豊島市川間のルートは更に後代まで維持された事を意味しています。

 

平安時代へGO