南北朝時代の千住


南北朝時代といえば

1331年鎌倉幕府が光厳天皇を立てて後醍醐天皇を隠岐の島に流した時から
1391年後亀山天皇が後小松天皇に三種の神器を引き渡すまでの60年間を云いますが
1333年までは鎌倉時代に含まれ1336年以後は室町時代に含まれます
ここでは1333年から後村上天皇が崩御され足利義満が将軍になった1368年までの35年間を
南北朝時代としてみていきたいと思います。



この時代千住で起こった最大の事件は石浜合戦として知られる事件です。

上の図は江戸名所図会より正平七年隅田川合戦の図を転載しました。

足利尊氏とその弟直義は仲たがいしそれに南朝の勢力が加わって観応2年の情勢は混沌としていましたが

政争に敗れた直義が関東に下ったのを追って尊氏も関東へ下りました直義が関東で病死(毒殺)すると尊氏は

関東の足利勢を掌握しました。

翌正平7年(1352)京都では南朝軍が攻勢に出て京都は陥落し足利義詮は近江に逃れました。

それに呼応した関東の新田勢は新田義興を主将として10万の兵力を集め鎌倉を狙いました。

それに対して足利尊氏は8万の軍を集め小手指が原(所沢市)で対峙し決戦となりました。

新田義興は足利尊氏を見つけるとこれを討ち取ろうと手兵3万を率いて追撃しました。足利尊氏は旗本(500騎)に守られここ石浜まで退却し

次いで川を渡って三股城(現在の鐘ヶ淵中学付近)に入り川舟を全てひき上げてしまいました。

朝から追撃した新田勢は日没に至って川を渡れないので追跡を断念しひき上げました。

右側の軍勢が隅田を渡った足利尊氏とその一行で二つ匹両の足利の旗が見えます。左側夕日を背にしているのが新田義興の

軍勢で絵の上からもその士気の高さがうかがえます。

さてこの結果小手指が原の新田軍は総司令官が戦場を離脱してしまったため足利軍(副将仁木頼章)に完膚なきまで打ち破られ

新田氏は再起不能となっていくのです。これを要するに足利尊氏の60kmに及ぶ退却は戦略的で

隅田をわたることまで計算されていたのでしょう。この後石浜城へ入った足利尊氏の下に関東の足利勢は結集し

新田勢は余勢を駆って守備のいない鎌倉を占領したりしましたが石浜の足利勢が北関東へ進出すると負け戦となり根拠地の

信州まで撤退したのでした。この間の記事は主として太平記によっています。

この数ヶ月間足利幕府は南千住の石浜にあったのです。

 

さてこの頃千住で創建された寺社は金蔵寺(千住二丁目1335)があります。

この年の銘の入った板碑が残されている事からこの年頃の創建とされたそうです。

 

次は室町時代です。戦国時代と合わせて述べる予定です。