仲町の繁栄

江戸時代千住の繁栄の中心地は本町それも1〜3丁目の間でした。
明治になると本町地区は宿場の廃止・本陣の廃止・さらに遊郭の分離など次々にダメージを受けました。
その中で商業の自由化は河原町の「やっちゃば」仲町の鶏肉・川魚の市場の活性化をもたらし、
繁栄の中心は仲町(掃部宿)に移って行きました。
さらに東武鉄道が中千住駅を開業するなどさらに追い風が加わり
大正から昭和戦前には千住の繁栄を一手に引き受けるほどの繁盛を将来しました。
源長寺の地蔵縁日をはじめとして多くの風物詩を生み出し
商店街を組織した区内最初の組合、実業会の物語など多くの旧家の物語を交えつつ語って行こうと思います。
舞台は昭和一桁ところは千住仲町さあ行きましょう。


やっちゃ場の朝は4時ごろ始まります。近在の農家がみなその製品(野菜・花卉)を荷車に積んで
河原町の旧道に沿った仲買人のお店に持ち込みます。
各仲買はそれらの品物を吟味してせりにかけ東京の北半分から来た小売商(八百屋さん・料理屋さん)
に売りさばきます。今でもその時の石畳のせり場が河原町の民家に結構残っています。
荷車はかなりの重量があったので都心へ向かう新開橋(今の足立市場前付近)や千住大橋の斜面を登れず
多くの押し屋さんが橋の袂にたむろして有料で難渋した荷車を押していたそうです。
北側は一望の関東平野だったのですが荒川ができたとき(大正12年)には仮街道や完成後の
千住新橋には難渋したということです。
荷車は足立区内はもとより草加、越谷の在からも来ていたようです。


河原町のせりは午前中には終わるのでそのあと自宅に戻る前に
必要なものを買い足して行きました。その買い足す場所が仲町でした。
農具から始まって日用雑貨さらには贅沢品(当時の言い方ですが)にいたるまでほとんどのものを
千住の街から調達して行きました。


当時の当社はその仲町の中ほど旧道の西側今のシャトル・モンプチ(マンション)の所にありました。
畳表の卸を主力としていましたが特殊荒物や荒物雑貨も広く扱っていました。
市場帰りの人たちは、わらじ・蓑・笠・それに付随する各種の雑貨を買って行ったという風に聞いています。
源長寺の縁日は今日はもう行われていませんが
当時はとてもたいした賑わいで周辺一帯もボンボリを吊るなどとてもにぎやかな景観だったようです。


当時の仲町の商店で特筆すべきは古久屋呉服店でしょう。
千住の三越といわれたこのお店は旧道の東側今のダイカンプラザのところにありました。
最盛期には屋上遊園地なども備え夜でもその店の前は遅くまで明るいといわれたそうです。
右に千住案内に掲載した古久屋さんの広告を転載しておきます。

そのほかにも多くの名店が軒を連ねていました
江戸時代以来うまいものの番付にも載った「松うなぎ」(今なし)をはじめとして
「みさご寿司」(当時の当店の隣今なし右下に写真)などの飲食店がありまた
千住銀行・中井銀行などの金融機関(千住銀行のページを見てください)

千住の商業が始まった天正時代から続く若田薬局(畳屋薬)などの旧家
千住仲町を開いた石出家などの名門がありました。


また千住の値段が東京の相場だ!といわれたくらい強かったいくつかの問屋さんもありました。
まず鶏肉は鳥福(今のオータニの南側にあった)とか鳥市(今の長谷川金物店の北側に最近まであった。)
の両店が上げられます。
川魚は江戸時代から続く千住の最大の商材でした今日まで圧倒的な商圏を誇っている
鮒與さんがその代表的な問屋です。
材木も千住の大きな商材でかなりの取扱量を誇る問屋さんがありました。ちなみに千住木材市場はその後
保木間へ移りやがて役割を終えたようです。


これらの繁栄を誇った仲町も昭和恐慌でかげりを見せ
戦争が近づくにつれ繁栄を失ってゆきました。
戦時統制は配給切符の悪評とともに商業の活力をなくしました。
当店も東京府内で唯一の取扱店だった藤蔓(特殊荒物のひとつです)の取り扱いを停止されたそうです
理由は府内に2箇所以上の取扱店がなければ
その商品の公正な価格が定められないからということだったそうです
このような統制経済はすべての経済の敵です。
商業者は少しでも統制の匂いがするものは拒絶しなければいけません。
昭和も12年を過ぎると満州事変、支那事変、大東亜戦争と進んでゆきます。
店主も従業員も次々と兵役や徴用で店から姿を消して行きました。
当店も昭和18年全男子従業員(店主も店員も)が兵役と徴用で店から姿を消すと廃業命令が出たそうです
理由は男子職員がいないから!!
なんということでしょうこのようなことが2度と起こってはいけないと思いませんか?


昭和16年やっちゃばが東京中央卸売市場足立分場となり
昭和20年戦災によって仲町が全焼するとここに仲町の繁栄は失われました。
戦後は荷車から自動車に輸送手段が変わり市場に来た農家がここで買い物をする必然性もなくなりました。
中千住駅も廃止され(北千住駅のページ参照)北千住まで行かないと電車に乗れなくなりました。
源長寺の縁日も戦後が続く間に廃止され、仲町の繁栄の基礎は大きく傷つきました。

千住の最初の商店街といわれた実業会もなくなり
戦後千住仲町商店街として再組織化されましたがかつての繁栄を取り戻してはいません。


戦災を機に多くの商店が千住1〜3丁目へ流出しました。
もちろん当店もそのうちの1軒です。近隣にも戦前仲町にあったねという店がまだ何軒もあります。

仲町の再度の繁栄を祈ってこの項を終わります。