元宿神社

千住元町の鎮守のこの神社の付近は帝京科学大学の進出以来変化が激しく
神社の西側の千住福祉センターと東側の駐車場が
帝京科学大学の第2第3の大学校舎となり
まさに大学に挟まれた格好になってしまいました。
神社の前は桜並木になっておりその季節には見事な景色が楽しめます。
周辺に合わせて行われていた環境整備も終わり
石の鳥居も建て替えられ
樹木も整備されそして最後に千住七福神に参加して
印象も一新しました。

さてこの付近は元宿というくらいで千住で最も古い集落のあったところです
千住を通った鎌倉街道を参照してください。
西新井橋の北東側に武蔵千葉氏の拠点の一つ
淵江城があり(今の本木2丁目を中心とした一帯)、
その城下町的性格もあったのではと類推する人もいます。

神社の境内社務所の前に
大きな石碑が立っています。
これは「感旧碑」といわれ荒川放水路が開削されるにあたって
元宿耕地の北半分が河川敷となりそのため多くの村人が
耕地を譲り離散せざるを得なくなったその開墾より現在に至る事情を書き記したものです。

それによると(訓読文を意訳してあります。原文は漢文です。)

祖先「鈴木因幡守貞宗」は長享元年(1487)甲州武田氏に仕えていたが
その子「蔵人」の時大永6年(1526)に元宿の地に移り住んだ。
そしてその子「左衛門尉信義」は天正元年(1573)開拓を始め多くの良田を得た。
翌年それを記念して東南の地に八幡宮を東北に稲荷社を祀った。
また徳川氏が江戸に入府して以来、徳川氏に仕え
天正から慶長にかけての戦乱に3度感状をもらうほどの働きをしました。
はじめ開拓に従事したのは24軒だったのですが
元禄2年(1689)千住宿の建設の時そのうち20軒は千住4丁目の建設に
伴って4丁目に移転し元宿に残ったのは4軒にすぎませんでした。
後に増えて14軒となりました。天明の飢饉にも明治40年43年の大洪水にも
この地を去りませんでしたが大正元年(1912)荒川放水路の工事が始まると
その河川敷に指定されやむなくこの地を去ることになりました。
この地に住んで400年の感慨を禁じえずこの石碑を建てて永遠に記録したいと
思うものであります。大正5年3月 貞宗の子孫 鈴木与吉。

この碑文は千住の歴史を知る上で大変多くのことを
教えてくれるものです。
さて元宿神社のほうですが
こちらは碑文に出てくる八幡宮に当たります。
稲荷社は河川敷になってしまったので八幡宮に合祀されました。
もともと元宿は千住4丁目分とされていたので4丁目の氷川神社が鎮守とされていました。
そのため明治時代の悪名高き神社整理の時この神社も廃止され
千住4丁目の氷川神社に統合されました。
しかし他の丁目の分はたがいに隣接しており4丁目の分だけが離れていること
もともとこちらのほうが4丁目の元であるという感覚などが作用して
昭和の町名整理に伴って元宿耕地が元町となるとその鎮守として
分離し昭和5年元宿神社として復活しました。そして今日に至っています。


写真上は元宿神社の入り口
左側は帝京科学大学の校舎
写真中は感旧碑
後ろは校舎
写真下は本殿
一番下右は近年改修された石鳥居
後ろ都営元町住宅の高層棟
一番下左は
千住七福神の寿老人
平成20年の組み換え以後当社で祀ることになりました。