千住の建設弐
千住宿の建設

徳川幕府が新しく日光街道を設定した時江戸よりまっすぐ北へひとえに日光を目指す道が設定されました
昔の経路は無視され全く新しい道として建設されたのです。
これが他の品川、板橋、新宿など旧街道を生かしてそのルートの上に整備された宿場と違う所です。
今でも地図上にその直線を見ることが出来ます。
例えば南千住の天王様より千住5丁目の分岐点まで、荒川の北川田橋の信号より西保木間まで、
また草加宿を出た所から始まる松原の直線街道は皆なるべく直線でまっすぐ日光へという設計の現れでしょう。
南千住部分は堤防の整備とともに前回説明しましたので今回は千住本宿の部分について説明しましょう。


上の図は郷土博物館発行の千住宿からとった街道の模式図です。
中央に4間(約7.2m)の凸型の街道があり両側に3尺づつの庇が出ていました。舗装は砕石舗装(砂利道の事)でした。
家側には下水溝があったと考えられているそうです。

街道部分から両側に約100mの宅地が広がります。そしてその両端に水路が設置され宅地と農地の境となっていました。
この水路とその脇の道は現在旧道の両側に見ることが出来ます。そしてその道の外側に寺院や神社が配置されました。
こうして今の千住の原型が作られました。


この内、本宿部分の工事の完成は元禄1年12月頃となるでしょう。
千住本宿1丁目から5丁目部分は平地より盛り土がなされその厚さは渡辺春園氏によれば1〜2丁目で2.5m
問屋場から本陣までが最も厚く北へ向かって薄くなり5丁目付近で1mぐらいとのことです。
当然造成地なのでその工事中は住居を取り払っての工事だったと思われます。
本来の千住部分は1〜2丁目となり3丁目は廃止になった和田野宿の人によって
また4〜5丁目は同じく廃止になった元宿の人によって構成されました。
この二つの宿は新しく千住宿が設定されるに伴なって廃止されたわけです。


さて熊谷土手の高さは3.6mですから街道より1m程度高かったかと思われます。
その南側は掃部宿でしたが新設された掃部堤(現墨堤通り)までの間は本宿と同じ造りに整備され
それより川側は沼をなしている所もあり堤防道路となり大橋の袂の橋戸町までつながれました。
この部分を河原縄手と呼んだそうです。明治の頃一時橋(新開橋)にしたこともあると言うところで難工事だったようです。

これらの工事はやはり渡辺春園氏によれば幕府の大棟梁で日光東照宮建設を行った甲良家が
今の千住旭町に屋敷を構え指揮をとった。そしてそれを同じく今の千住曙町に屋敷を構えた石出吉深がバックアップした。
と考えられるそうです。


宿場施設は元禄8年(1695)問屋場(今風に言えば町役場)が寛保3年(1743)貫目改所が設置されました。
宿の組織としては明暦年間(1655頃)に1〜5丁目に本宿を分割しました
万治元年(1658)掃部宿、河原町、橋戸町を千住宿に編入しました。この部分は本宿に対して新宿と呼ばれました。
万治3年(1660)小塚原町、中村町(今の南千住)を千住宿に編入しました。この部分は加宿と呼ばれました。
こうして千住宿8町(新宿は1町とします)がそろい、これから江戸時代の話に入ります。