小塚原焼場

南千住には江戸時代の寛文9年(1669年)以来江戸最大の火葬場がありました。
これが小塚原焼場です。

江戸時代火葬は寺院が行う宗教事業でした
そのため火葬を行う寺院は火葬場として荼毘所を持っていました
幕末まで火葬が承認されていたのは
1.深川霊巌寺町 浄土宗霊巌寺 日蓮宗浄心寺  明治6年廃止
2.今里村 芝増上寺下屋敷              明治9年廃止
3.代々木火葬場                     現在 代々幡斎場
4.上落合 日蓮宗法界時                現在 落合斎場
5.砂村新田 浄土宗阿弥陀堂             旧 砂町斎場 昭和40年廃止
6.桐ケ谷 浄土宗霊源寺                現在 桐ヶ谷斎場
7.千住火葬場           後で詳しく述べます下記参照。
の七か所でした。

その昔は千住・千駄ヶ谷・桐ヶ谷・渋谷・炮録新田を五三昧といい
五か所の火葬場があったとされています。
この五か所は千駄ヶ谷以外上記の七か所と一致します。

さて千住です。
寛文九年以前は上野下谷浅草の各寺院は
各自に火葬設備を持って荼毘に付していたそうです。
ある時将軍様が上野寛永寺参拝の際その煙が上野山内にたなびいたことから
この地域の荼毘所はすべて移転せよということになったといいます。
指定されたところは小塚原町と中村町の入会地
現在の第二瑞光小学校の東側千住間道(当時はありません)のほぼ南側
一町四方の地域に堀をめぐらせ上記の地域の20数ヶ寺の荼毘所が移転してきたといいます。
その後変遷があって幕末まで残っていたのは
1.天台宗  安楽院 地図に教伝寺とある寺院なら南西側3番目
2.真言宗  永安寺 所在不明
3.〃     西秀寺 南西側5番目
4.浄土宗  称名寺 南西側6番目
5.〃     秀保院 南西側8番目最後南東角
6.真宗    教受坊 南西側4番目
7.〃     随円寺 北西側4番目
8.浄土宗  恵日院  南西側7番目
9.禅宗   清光院  北西側5番目最後北東角
10.真言宗 浄光院 北西側2番目
11.日蓮宗 宗源寺 北西角
12.〃   高雲寺 南西側2番目
13.〃   乗蓮寺 南西角
14.〃   宝林寺 南西側3番目
の14か寺でした。これらを火葬寺といいます。
日光街道側から入ると堀を渡り中央に東西道路があり
その南北に各寺院の荼毘所が並んでいました位置は江戸切絵図に拠りました。
中でも南側中央の西秀寺と北側奥の清光院(地図では盛光院)の2軒は他数軒分の面積を占めていました。
上記の表でもわかるように千住以外は1〜2寺の荼毘所であったのに対して
千住はなんと14ヶ寺の荼毘所だったので当然その処理能力に差が出てきます。
江戸時代の火葬の過半は千住で行われたと考えられます。

明治6年明治政府はなんと火葬禁止令を出しました。
廃仏毀釈の一環で土葬を行えということになりました。
江戸のような都市部で土葬用の墓地をどう確保するつもりだったかわかりませんが破綻するのが
目に見えるような政策でした。
案の定明治8年火葬は解禁になりました。
このとき廃止になったのは深川だけで他はすべて新しい規格に合わせて営業を再開しました。
新しく千住火葬場として再出発することになりました。
このとき建てられたのは厚壁、塗屋造、で屋上に4間間隔で2基の煙突を持ち
その高さは1丈5尺(4.5m)地上からの総高は3丈2尺(9.6m)とされました。
右の図は荒川区史所収の図を基に作成しました。
出入口(図面では大戸口とあります)は2か所に設置されています。
しかしながら明治10年のコレラの流行は火葬の処理能力を超え処理できない遺体が
野積みになってしまったことから周辺からの陳情もあり明治20年までに移転せよ
ということになりました。
千住火葬場が移転先が見つからず操業停止に追い込まれた20年12月に半年早く
日暮里村蛇塚に東京博善社による日暮里火葬場が開設されました。
千住が市街地に近すぎるので廃止命令が出たのにもっと市街地のど真ん中に新設許可を出したのはなんだのでしょう?
またまた案の定翌々明治22年町屋への移転命令が出ました。都市計画で2200坪が用意されました。
千住火葬場会社は東京町屋火葬会社と社名を改め町屋の敷地の東側を入手して直ちに移転しましたが
西側を確保した東京博善社の移転は日暮里の閉鎖期限27年を大幅に延長してもらって
明治37年になったそうです。明治37年両社は合併して町屋斎場が完成して現在に至っております。

さて東京博善社はその後大正時代に町屋・砂町・落合・代々幡の4か所で株式化され
日暮里と同時期に許可された四ツ木を合併し続いて同系別会社だった桐ヶ谷を吸収して
23区内の火葬場を独占する会社に成長しました。最後の合併されたのは
杉並区の堀ノ内斎場で昭和36年のことだったといいます。

資料は荒川区史上巻に拠りました。
地図は江戸東京情報地図を参照しました。
また博善グループの神田博善社のHPを参照しました。