本陣と脇本陣

 

本陣は大名以上の高官が泊まるため専用に作られた旅籠です。

武士は常に戦陣にあることを心がけて参勤交代も行軍の体制をとっていました。

それでその宿泊する所は本陣といわれたのです。

従って本陣は大名が泊まるにふさわしい玄関式台付きの建物で

前庭には行列をそろえるだけの空地があり背後には軍馬を預かれる厩舎がありました。

広重の東海道五十三次に出てくる本陣の風景もそのようです。

宿泊する大名は戦陣にあるのと同じなので食料から寝具、燃料まで一切自分持ちでした

つまり本陣は大名に建物だけを貸したようです。

ただ炊出し等は行ったようで早朝の作業になっていたそうです。

行列によっては本陣に泊まりきれない事もしばしばあったようで

その時は周辺の武士の泊まれる格式の旅籠にあふれた人数を引き受けてもらったという事です。

私の今の店舗は本陣の隣に当たりますがその前のところが父方の実家で

かつては旅籠であった幸手屋萬右衛門家で

小学校にあがるまでをそこで過ごしました。上段の間といわれる部屋が何室かありました

かつて「お侍だの明治になってからは兵隊さんだのを泊めたところだ」という話でした

普通の廊下より部屋の床はかなり高く多分一尺(30cm)位高かった印象です。

そのような旅籠が本陣の周辺に何軒もあったようです。

本陣は火災その他の不時の休業は除いても常に営業しているというわけではありません。

既に述べたように高官専用なので泊まるほどの地位に達していないものには宿泊を認めません。

従って該当する旅行者がない場合には空きとなり一般のお客をとることは出来ませんでした

時代劇や小説で旅行者が高級旅館へ泊まるような感じで本陣へ泊まったようなことが書いてあるものがありますが

主要街道の本陣に限ってはうそです。脇街道の本陣、脇本陣の区別の無い地域ではあったかも知れません。

必然的に経営は楽ではなく多くの宿場では名主役などを引き受けられるような素封家が引き受けたようです。

千住の本陣もその通りで名義は変わらなくても何度も経営者は変わったようです。

大名行列の日程は早くから決まりいくつもの大名が同じ宿場でぶつからないように調節がされたようです。

宿泊する大名やそれに順ずる高官の名前は宿の南北の入口に掲示されました。

千住では南は河原縄手の北側今の河原町と橋戸町の境付近の西側に、

北は茶釜橋の南側光茶釜の対面に当たる道の東側にありました。今は千住新橋の下の河原になっている所です。

小さい高札場という形で関札所と呼ばれたそうです。

そしてそこに行列が到着すると宿役人と本陣の主人が正装の上出迎えたと云われます。

一方脇本陣は原則的には行列が重なったりした時、臨時に宿泊させるもので玄関式台付きの建物で

前庭があり本陣同様の設備が必要なことは云うまでもありませんが閑散時には一般の旅人も宿泊できた点が違います。

従って経営も比較的楽だったようです。また臨時の施設なので結構移動が激しかったようです。

特に千住を多く通行した日光の高僧たちは一般の脇本陣を使用せず本陣がつかえなければ寺院を脇本陣に指定しました。

大名やそれに順ずる高官は一般の旅籠への宿泊は禁止されていましたが自前の設備を持つ場合はその限りではありませんでした。

例えば千住宿の北に隣接する梅田に

抱え屋敷(大名屋敷のうちで将軍家から割り当てられる拝領屋敷ではなく自分で土地を買って建てた屋敷の事)を持っていた秋田の佐竹家や

一丁目の名主下川家との縁故でそこを定宿とした福島県の相馬家等があります。

 

さて千住の本陣ですが宿の開設以来幕末まで継続していたのは秋葉本陣といわれる千住三丁目の本陣です。

代々秋葉市郎兵衛を名乗りとして現在の「そのう」ビルとその隣の「NU」の店舗を間口として奥行は裏通りまで

の敷地を占めていました。記録では361坪の敷地に120坪の建坪があったと言います。

その形は江戸時代の各種の地図上でも判断できるものでした。右上の図増補行程記の千住宿北部のものですが右下に御本陣とあります。

左側の曲がり角が名倉手前の曲がり角で街道が大きく西に曲がるのがわかります。

この図は精確に作られた分間延絵図よりかなり粗雑な絵図になっていますがかなりの所まで特徴を捉えて描かれています。

地方の大きな宿では2軒ないし3軒の本陣が設定されている所も多いのですが江戸四宿では宿泊する方も少なかったようで1軒となっています。

ところが千住が形をなした元禄期から享保期にかけてはもう一軒千住四丁目に喜左衛門本陣が記録されています規模は秋葉本陣とほぼ同じですが

それ以後見えません。千住の郷土史家渡辺春園氏に拠れば四丁目の名主高梨家がこれに当たるだろうとのことです。

現在の旧日光街道四丁目の中ほど西側ほぼ現在の4−17の部分全体を占めていたようです。

享保期に高梨家が断絶するとそれを相続した正木家は私塾を開いたので本陣は返上されたと考えられます。

文献上主要な脇本陣はそれ以後三丁目の太助本陣とされます。これは街道より裏にあったようで表通りの絵図では見つかりません。

この脇本陣は享保期より幕末近くまであったようですが幕末の時点では不明です。

位置は現在の「白亜ビル」東裏側の付近と考えられますが私としては確証がありません。

本陣、脇本陣その指定を返上すると玄関式台付きの建物からその部分は撤去され普通の旅籠のつくりに直されたそうです。

 

明治時代に入ると明治天皇は東北御巡行の砌、千住に宿泊して送別宴を張られまた帰りにも宮城に入られる前の一晩を過ごされました。

その宿は本陣の前の中田屋別館と決まっていたようです。既に本陣は廃れていたか旧幕府の色がついている本陣を嫌われたのかもしれません。

現在の渡辺洋菓子店「シュクル」の付近が中田屋本館でその東側淺川医院のあるところが別館のあったところとされています。

終戦直後まで建物はあったと聞いていますが今はありません。案内板には「明治天皇行在所跡」とあります。

その後大正期に入ると千住の旅館・遊郭等は皆、柳町へ移り花街を形成したため旧日光街道沿いには宿場を思わせる建物は残らなくなりました。