光茶釜と茶釜橋

 

千住宿の北のはずれは用水掘りの幹線が日光街道を横断する位置にありそこにかかっていた橋が茶釜橋です。

その位置は千住大橋を渡った街道が千住5丁目の水戸街道を分ける辻をすぎると左に大きく曲がります。

その曲がる所から北へ行く分岐がありこれをいくと角からすぐに千住の名倉に達します。

分岐の方へ行かないで本道を行くと今は荒川土手の堤防に突き当たりますが
昔はそのまままっすぐ今の荒川河川敷を越えて北岸の平和橋通川田橋の信号の所につながっていたのです。

ちょうどその延長線が千住新橋と交わるあたりにこの橋はあったのです。そこが千住宿の終点でした。

宿の中心部には宿屋がたくさんありましたが5丁目地区は宿泊施設ではなく休憩施設が設定された所で多くの茶屋があったそうです。

この中でも将軍大名が休むような所は茶屋本陣と呼ばれました。

 

さて8代将軍吉宗公は鷹狩の帰りにこの橋の袂の茶屋へ寄られました。

吉宗公はそこで茶を沸かしている茶釜の美しく輝いているのに目を留められ

 

名を残す爺か茶釜や照るかがみ

の句を残されました。時に元文5年12月の事でした。

そしてその翌年また立ち寄られこれを短冊にしたためられ茶屋の爺に賜ったそうです。

それ以来茶屋ではこれを家宝とし釜とともに保管してきて今日足立区の有形文化財に指定されているようになりました。

 

江戸名所図会を始めとして多くの文献、旅案内等に皆特筆され

参勤交代のための地図などには将軍様の立ち寄られた所失礼の無いようになどと注が付けられたりしました。

上の図は江戸名所図会のものですが釜の字を銚に作っています。将軍様の用字と抵触しないための配慮だといいます。

 

その後明治になるとこの地には千住馬車鉄道の起点の駅が設定されここから越谷までの馬車鉄道が開通しました

明治26年の事ですこの鉄道は明治33年まで運行された短命な鉄道で

本格的な鉄道である東武鉄道の開業(明治32年8月)に伴なって廃止となりました。

7m福員の旧道の上に線路を引いて馬の牽引する客車を走らせたのですからかなり無理があったのでしょう。

大正に入るとここは荒川放水路の開鑿が始まりやがて荒川の河川敷となり何もかも失われてしまいました。