平安時代の千住

千住の町の創建は平安時代だといわれています。
千住の町の古文書として名高い旧考録からその部分を引用してみましょう。


それ、千寿の里は醍醐天皇の御宇、延喜年中に開発せりとなん

その頃より只、千寿・千崎の二つの地名あり、

のち延長4丙戌(926)の年稲荷大明神勧請ありしと人口に伝えると

雖(いえど)もいまだその証の正しきを知らずなお後人の詮索を待つのみ

旧考録後編1.千住宿成立までの旧古考より冒頭部分を引用一部現代仮名遣い新漢字にしてあります。


このように控えめな表現で始まる旧古考は弘化2年(1845)の奥書があり前編の成立がこの頃
と言われ、後編も安政年間までには成立したとされる旧考録の後編に収録されています。

この後も旧考録より引用する事が多いので宜しくお願いします。

平安時代の千住はこのように10世紀の最初の年(901)に開発がはじまったとされています

今から1100年前の事です。

開発は隅田川の北岸から始まりその拠点は今日の千住神社付近に置かれたと想像されます。今日の橋戸稲荷神社付近は

川の中へ突き出した岬状の地形をしていたであろうことがその後の開発の推移から考えられます。

そしてこの岬が千崎だったのでしょう。開発が軌道に載った延長4年この地に稲荷神社が祀られました。

エピソード

伊勢物語の主人公が石浜の渡しで有名な短歌を詠ったとか更級日記の著者が松戸、市川、豊島、大井と通っていく途中

この辺は葦の茂みだけで何も無い所だと述べているとか文学的表現は皆石浜の事です。

さて源義家が前九年の役、後三年の役に際して手勢を引き連れ奥州に下ったときどのような道を通ったか

を探ってみるとその頃千住がどんなだったかがわかろうと言うものです。

右の写真は福島県勿来の関にある源義家の銅像です。おととしの夏その地を訪れた際、義家公に対面して

びっくりしました。銅像は勿来駅前と勿来の関とにありましたこれは関所のほうのものです。

左に勿来の関の門標が写っています。

江戸名所図会等によれば義家は豊島の駅で豊島義近に鎧と観音像を与えた

と言います。右の絵はそれを描いた江戸名所図会の場面です。

それで後の平塚神社は義家兄弟を祀って平塚三明神といったそうです。

そこから往時の官道を下り、後の千住大橋の上流側にある

熊野神社(大橋西側の材木屋さんの裏にあるお宮)付近より

入間川(今の隅田川)を渡り今日の千住神社付近で野営したようです。

そしてこの地に白旗(源氏の旗)を立て陣を敷いた跡に建てられたのが、

千住宮元町の八幡神社といわれます。

千住を出ると今日の元町、梅田を抜け六月村の炎天寺付近で野盗と戦い(炎天寺の隣に八幡神社あり)竹ノ塚の白幡塚で

凱歌をあげ首実検をしたといいます。この付近に多くあった古墳(群集墳)を兜塚に擬したもので

信憑性はありません。白幡塚そのものはその上に祀られたと言う祠も失われ今日名を残して

遺跡公園となっています。話は何年にもわたって行ったり来たりしたのを地名順に並べただけなので個々の事件が

何時起きたかはわかりません。ただこれらの話からすでに後の奥州街道となる道が出来ていた事がわかります。

この頃の千住が古道をたどれば今日の中心より西側今の元町付近に

あった元宿が中心をなしていたのではないかと思われます.

次の事件は鎌倉時代になります。

鎌倉時代へどうぞ