現在の千住(平成17年現在の私感)

ひとつひとつの事柄について勝手な感想を交えつつ
ようやく、この平成17年にたどり着きました。
いろいろなポイントが時代時代に在ったのですが今のポイントは何でしょう?
千住が活力を失わず新しい時代を切り開いていくにはどうしたら最もよいのでしょうか?
どんな姿が似つかわしいのでしょうか?


人にはそれぞれ思い入れがあり、どんな姿がよいか、みんな違うことを思っているでしょう。
ここでは自分勝手な意見を述べさせてもらいたいと思います。


北の玄関千住
交通のターミナルとしての千住
古くは江戸時代から北への初宿として知られてきた千住は
現在においてさらに一層の東京の交通の要衝として重要さを増しています。
国道4号線を中心に鉄道はJR常磐線・東京メトロ日比谷線・千代田線・東武鉄道本線そして今年の8月からは
つくばエクスプレス線も北千住駅へ入りやや離れて京成電鉄上野線が通っています。
実に5社6線にも成り数え方によっては東武本線を伊勢崎線・日光線・半蔵門線と3線に数えることも可能です。
高速道路は首都高速中央環状線の千住新橋インターチェンジがありすぐ東の小菅堀切で常磐道・6号向島線を分け
すぐ西の江北橋で川口線(東北道)を分けます正に高速道路でも北の要の位置に当たっているのです
これらの形はここを住宅・事務所の立地としては申し分の無い場所にしています。


商業の街千住
市場が出来たとき千住は商業の拠点となりました。
その後宿場町となりましたが市場はその宿場の中に2町分の敷地を取る珍しい構成の町となりました。
明治以後も幾変遷を経ながら交通の要衝ということに地の利を得
奥州街道水戸街道の沿線から広く集客を続けてきました。
映画館で見たように娯楽も文化も扇の要に位置する千住が中心でした。
しかし流通革命の流れは速く社会の変革の先頭に立てなくなっていたのが昭和50年代以降の千住でした。
松戸柏に百貨店が進出し駅ごとに中型のスーパーマーケットが出来るようになり
亀有草加町屋の再開発が本格化すると千住の立ち遅れは誰の目にも明らかになりました。
さらにコンビニエンスストアのきめ細かな配置は商店街の必然性を失わせ
また環状7号線沿いに出来た多くの量販専門店群は駐車場の整備さえままならない駅周辺の専門店にとって存在意義を問うものでした。
遅ればせに出来た駅西口再開発はいまだ十全に稼動しているとは言いがたいものを感じます。
そこで商業・娯楽・文化で総合的に再開発するためには今の文化施設の建設の方針だけでは不十分で
例えば国道4号線周辺に幾つかの中型の娯楽施設例えばシネコンとか
あるいはトイザラスやジョイポリスを中核とする複合施設とかが立地してほしい。
旧日光街道沿道にはまだいくつもの名店が残っていますが全国レベルで名店といえるほどのものではないので
積極的に全国レベルで名店といえるような商店を誘致する必要があるのではないか。
といってもこの地の商業環境は現状ではかなり厳しくそのような商店が来ても苦戦しそうであるが
現在進めている宿場町通の懐古的歴史的政策はそのまま継続して本格的に観光政策的なものに生まれ変わるのが望ましい。
千住歴史資料館の創設・千住物産館の新設・インフォメーションセンターの配置などが考えられます。
この程度のことをしないと千住の商業は復活しないのではないかと危ぶまれます。


地場産業の街千住
かつて千住は多くの産業が立地していました。
川岸には重工業、造船業、製紙工業、紡績業、皮革工業などの大工場が軒を連ねていました。
今工場は東京都から郊外へさらに外国へと次々に出て行きます。
千住にあった工業も例外ではありません。でもまだ皮革(靴・かばんなど)や刺繍などは全国的にも高度なものを持っています。
これらの大工場ではまねの出来ない技術の世界に千住の工業の将来があるのでしょう。


住む人の町千住
昭和の始めごろから千住の町が一変しそこらじゅうに住宅が立ち始め
農地は次々と住宅になっていくという事態が発生しました。今で言うスプロール化です。
この時区画整理は行われず。申請に応じて建築線が設定されただけでした。
建築線は戦後2項道路になったものが大部分ですが廃止されたものもたくさんありました。
旧市街地は街道と東西の裏通りをつなぐ狭い路地が家と家の間を隔てているだけでした。
自分が子供の頃塀を廻らしている家はわずかで子供達は軒先伝いにどこまででも探検してゆきました。
これが千住は路地が多い宿場町の風情だといわれるものの実情です。
この風情を残しつつ現代の優良宅地を開発しようというのは至難の業で
どんどん今の建築に変わってきています。
長い目で見れば新しい基準に合わせていくほうが良いに決まっています。
しかし近年の経過を見ていれば住環境もかなり改善されているように思います。