円通寺

千住大橋から南に向かい国道4号線に面し大きな三角屋根に観音様を配した
大変目につく寺院です。
江戸時代より百観音として知られており
当時は通新町より短い参道を通って
境内に入ったようですが
現在は通新町が昭和通りとなり
国道4号線となったため
その拡幅により直接国道に面しています。
境内入り口には石標のみがあり
門はありません
写真はその正面の石標です。
後ろに本堂の上に輝く観音像が写っています。



まっすぐ参道を行くと右側に
八幡太郎義家によって討伐された者を葬った小塚があります。
その数は48に及び真っ白な石塚が重なるように何段もになっています。
これが小塚原の地名のもとになったと伝えられています。
写真はその石塚です前側は大きな石組で仕切られその前に
拝所がありますその後ろに石仏が祀られており
次の白い立石がその石塚です。
正面中央のやや大きな塚に賊首と彫ってあります。
後ろ側にまた大きな石組があり
その後ろに板碑が右側に
小石塔が左側に見えます。
そしてその上にその伝承を記す七重の塔があります。
中国風の石塔です。
この石塔の碑文は荒川区で最も古い碑文とされています。
石塔は享保7年(1722)に当時の宗慶和尚によって建立され
銘文はその台座に掘られたものです。
表には「七層虚をあおぎ・貞石愈々新たなり・永く恵日懸りて・枯木も常に春なり」
とあり裏面に上記のことが原漢文で刻されています。
原文は円通寺のホームページにありますので
ご参照ください。
永保3年(1083)に源義家が此処に立ち寄り感を得て
奥州に向かい8年に及ぶ戦乱に勝ち持参した賊首48をここに埋めた
顛末を記しています。記事はその他には寛永2年(1625)大君(将軍家光)が
鷹狩りの時円通寺の松に鷹が止まったのを善しとしてその松を
鷹見の松と名付けた(この小塚の隣にある松の木です。)
ことが記されています。


但し定説では小塚は天王様の瑞光石を
祀った塚がその起こりとされています。



その前左側に寛永寺から移設された「黒門」と
彰義隊士の墓があります。
大きく「死節の墓」と彫られているのは戊辰戦争前後に
幕府に忠節を尽くして没した125名の菩提を弔うものです。
彰義隊士の墓「戦死墓」は
慶応4年5月上野戦争の後
当寺の仏磨和尚が寛永寺の御用商人だった三河屋幸三郎とともに
官許を得て戦没者(彰義隊士)の遺骸266体を火葬し
ここに葬ったことに拠ります。
写真はその石塔です。

明治40年寛永寺の黒門がこの縁をもってここに移されました。
現在の黒門は昭和60年に修復工事がなされたものです。
旧町名の上野黒門町等はこの門に由来します。
もともと寛永寺の総門で現在の清水観音堂のそば
参道(今の桜並木)の門でした。
上野戦争での多くの銃痕が残っています。
現在上野の黒門跡には
太田蜀山人の句碑が建てられています。

また上野山内にも彰義隊士の墓が建てられています。
これは火葬をした場所に建てられたものです。





そして正面に向かって
御本堂があります。正面に観音菩薩の
大立像が立っています。
私の子供のころには普通の寺院の本堂だったと覚えていますが
昭和の後半に今の鉄筋コンクリート三角屋根の巨大な建物になったようです。



















この寺院は延暦10年(791年)坂上田村麻呂の開創になり
その後源義家が前9後3年の役にこの地の
反徒を討伐し小塚を築いたとされます。
江戸時代には秩父・坂東・西国の
各33観音にご本尊を合わせて
百観音と称しその御尊像を祀った観音堂が著名だったといいます。
それで寺も百観音と通称されていたそうです。
しかしその観音堂は安政地震の時(1855年)倒壊し再建されませんでした。



江戸名所図会には収録されていません。