戦災からの復興と千住の映画館

第2次世界大戦は当然のことですが千住に大きな被害をもたらしました。
多くの人が皇国の必勝を信じて戦地に赴き帰らぬ人となりました。
少年たちは学童疎開で町から離されました。
学生たちは学徒動員で大学生は戦場へ中学生や女学生は工場へと学校から離されました。
焼夷弾を避けるために造られた疎開道路があちこちに設けられ多くの家が取り壊されました。
そして空襲で千住の南半分は灰燼に帰してしまいました。
多くの人々が疎開として田舎の親戚を頼り東京を後にしました。


戦争が敗戦で終わると、戦場から疎開先から多くの人々が町へ戻ってきました。
占領軍のジープが我が物顔に町を疾走する中で復興が始まりました。
これは日本中で起きた事でした。
昭和39年東京オリンピックが開催されました。
右の写真は東京オリンピックの聖火ランナーが
千住大橋方面へ向かって行くところです。
ガソリンスタンドはモービル石油で今はなくなっていますが市場の前
国道4号線と旧日光街道が分かれる三角形の土地にありました。
その脇の電柱には千住金属の広告が見えます。
中央は都電の線路がまだまだ健在です。
戦後の復興が一段落したときでした。この時千住の復興も一段落を迎えました。


商業では大型の衣料品スーパー
(今の中規模スーパーぐらいの大きさですが当時は大きかったのです)が
店舗の新築を終え
ヨーカドー(今のイトーヨーカドー千住がその1号店です)を始めとして
主婦の店スミレ(今のイトーヨーカドーの店舗の東側三分の一と本町公園の北側にそれぞれ店舗がありました。)
ヤヨイ(今のツタヤの入っている本館が店舗でした。のちに緑屋に店舗を貸しその撤退後ツタヤに変わりました。)
丸愛(今も国道にありますが衣料品からは撤退しボーリング場を主力としています。)
サンアイ(後に白亜と社名を変えます。現在は小売業から撤退し
飲食ビル等を経営しています)
マルシン(今のトポスです。下関にあるスーパーが
東京進出の第一歩として開店しましたが後にダイエーに経営を譲渡しました。)
これらの店舗が林立し下町の活気を作っていました。
写真は日比谷線開通の記念花自動車が駅前通をパレードしています。
4号交差点付近で左側に藤田ベルト(現在ファミリーマート)
パーマ文月(現べにや子供服店)一軒おいてヨーカ堂(まだイトーが付いていません。
木造2階建てでした。)次がスミレ本店といったお店が見分けられます。
また右側には当時一般的だったオート三輪(三輪の貨物自動車)が駐車しています。
以上の2点は「写真で見る足立区の40年のあゆみ」所収。


工業では中小工場が軒を連ね千住大川町、元町、日ノ出町、柳原周辺は
林立する煙突が見られました。
もちろんその中心は4本煙突の異名を持つ千住火力発電所でした。
隅田川べりには多くの重工業が軒を連ねました東京製鐵、吾妻製鋼所、日本皮革、
日本製靴、千住金属を始めとして造船所もありました。
対岸には千住製紙、南千住製作所、などがありました。
これは後の話ですが工業全盛の時代は短かったようで、その多くは今はありません。
これらの工場の多くは工業の都心脱出によって姿を変えてゆきました。
昭和ゴムが日ノ出町団地になったのを皮切りに千住製氷は中居町公園となり
東京製鐵はアメージングスクエアとなり専売公社はルネッサンススポーツプラザとなりました。
千住製紙はアクロシティとなり吾嬬製鋼所は足立郵便局となりました。


これらの中で千住の復興のシンボルのひとつが映画館でした。
千住の映画館はもちろん戦前からありました千住演芸館を始めとして金美館、新橋館、中央館、などでした。
また演芸場も大川亭、小松亭がありました。
注、資料的にはもっと多くの施設が記録されているのですが臨時的なものや仮設的なものも含まれているようで
恒久的な施設としてはこれだけのようです。
戦争が終わり復興が本格化した昭和30年代にはさらに多くの映画館が建設され
娯楽施設の不足もあいまって東武沿線は春日部、幸手方面からも常磐沿線は柏、取手方面からも多くの
お客さんを呼びました。この時期千住は東京東北の要だった時代でした。
その後昭和40年代に入ると衰退の兆しを見せテレビの普及とあいまって急速に観客数を減らしました。
地下鉄網の整備等によって日比谷、渋谷、新宿などの映画街へ出やすくなると特徴の無い小規模館の多かった
千住の映画館は急速に衰退し最後の館が平成に入ってまもなく営業を終わり
千住の映画の時代は終わりました。
以下でかつて千住にあった映画館・演芸場をひとつづつ見て周り栄光の日々をしのぼうと思います。


千住演芸館、千住東宝
千住演芸館は関東大震災の時にはすでに建物が出来ており救護所に指定されたときの写真も残っています。
しかし映画館としての開業はやや遅かったようで大正15年に開業したとされています。
この映画館は千住で最も古い映画館でした。
初めの頃は映画以外の出し物もやっていたようですがやがて日活のそして後には東宝の映画を主に扱いました。
昭和11年千住東宝と改称されました。
昭和10年代の第一次全盛時代、昭和30年代の第二次全盛時代の中心となった主力館でした。
立地も千住三丁目旧日光街道に面し千住の中でももっとも華やかな場所にありました。
旧道に面して2間ほどの通路で奥に入り通路の右側には上映中、次回上映のポスター、スティール写真
が大きなサイン看板に掲示され雰囲気をあおっていました。
正面中央に切符売り場があり中に入ると観客席は2階建てで立ち見も大勢いました。
円谷監督の特撮シリーズ、ゴジラシリーズ、加山雄三の若大将シリーズなどの多くの映画が上映されました。
人気映画のときは100mもの行列が出来たといわれたのもこの時代でした。
また学校の校外活動によく映画鑑賞が行われた時期でもありこの館で行われたこともたびたびでした。
しかし木造2階建ての建物は老朽化し観客の映画離れが進むと立ち行かなくなり
昭和53年の八甲田山を最後に閉館されました。
その後、取り壊されサンロード商店街のイベントに使われたりヤマハ音楽教室がプレハブで使用したりしましたが
現在はコインパーキングになっています。エキゾチックフェアのときなど会場として利用されることもあります。
写真は営業を終えて取り壊しを待っているときの写真です。
中央の枠にペンキ絵の上映中の絵看板がかかっていました。その下は半円形の庇で切符売り場がありました。
(渡邉氏撮影)サンロード50年史所収


大川亭、千住会館、千住日活、千住名画座
大川亭は明治時代に寄席・雑劇の劇場として開業しました。
やがて大正の頃には千住会館と改称され長く寄席の高座として親しまれました。
終戦直後には都心部の寄席が焼失していたため一流の芸人がここで興行した時代もあったそうです。
しかし都心部の復興が進むと衰退し昭和24年には閉館となりました。
その後パチンコ店などに使われていましたが
昭和29年第二次映画ブームに乗って再建され千住日活として復活しました。
1.5間ほどの入り口は旧道に面して狭く開いていました。
正面左側に切符売り場がありその奥まっすぐ入ると劇場になっていました。
石原裕次郎・吉永小百合主演の映画などがかかる時は駅前通まで行列が続きました。
しかし日活の衰退とともに衰退しロマンポルノシリーズの上映館として知られていましたが
昭和56年火災によって焼失しました。
隣の衣料品スーパー、白亜の全盛期で映画館は共同ビルを昭和58年に建設しました。
1階以上は白亜こども館として子供用衣料品の専門のスーパーとなり
地下1階に千住名画座が開かれました。
多くの名画が上映されましたが席数が少ないこともありあまり振るわず平成9年閉館しました。
千住で最も遅くまで営業していた映画館でした。
その後白亜のイベント会場に使われていましたが白亜の小売業廃止によって取り壊され
現在は飲食ビルである白亜第二ビルとなっています。


千住新橋館、千住東映
演芸館にほんの少し遅れて昭和3年に開業したこの映画館は長いこと新橋館の名で知られました。
当時市電の開通とともに繁栄した千住四丁目電停のそばに立地し多くの観客を集めました。
舞台の前には生で演奏した時代のオーケストラボックスがずっと残っていました。
昭和40年代には千住東映と名を改め任侠シリーズなどが上映され続けました。
子供たちの楽しみはここで春休み夏休みに上映された東映マンガ祭りでした。
しかしそれも足しにはならず昭和63年閉館になりました。
現在はライオンズマンションがそこに建っています。
場所は国道4号線千住新橋立体の南詰の信号を東に入りすぐ左折した右側に当たります。
写真は映画館の正面の駐車場から撮影(阿部氏提供)サンロードマップ掲載


千住劇場、千住金美館
道路の項目で説明した大正記念道が出来るとその沿道に開業したのが千住劇場でした。
従って開業は大正9年以前と想定されます、正確にはわかりません。
昭和5年には千住金美館と改名し主として松竹・新興(後の大映)の映画を上映する映画館となりました。
やがてそのすぐ南側に北千住駅前通りが開通すると駅前通り側に正面玄関を移しました。
昭和11年に結成された地元商店街も千住金美館通り昭和会と命名されたほどでした。
館内の暖房にスチームを使っておりその配管を座席の前に通してあったり新しい試みが見られたそうです。
戦後まもなく上演された君の名はの大盛況だったことなど多くの話題を残しました。
昭和36年閉館となりました。
現在は店舗兼住宅ビルの三泉ビルとなっています。
位置は駅前通と大正道路の交差する千住中居町の信号の東北側のやや駅側です。


中央館
この映画館は昭和8年に開業した小さな映画館でした。
主に大都映画(戦時中に大映に合併される。B級の娯楽映画を得意とした。)の作品を上映していたそうです。
まだ開けていない新興地に開業したの最初の頃は寂しい道で怖いくらいと思われていたようです。
規模も小さく演劇上の統制も始まった昭和19年頃には閉館になったようです。
現在は駐車場になっています。
位置は国道4号線から千住中居町郵便局前の信号を西に入ってすぐ左折した右側の駐車場がそのところです。
東京電力千住ビルのすぐ南側に当たります。


綾瀬館、三益劇場
柳原にあった唯一の劇場でした。
綾瀬館は記録上は昭和12年の一覧に載っているので
戦前すでに開業していたことは明らかですがその詳細はわかりません。
脇に今は暗渠になった古隅田川が澱んでいました。
戦後、三益劇場として再出発しました。名画3本立てを売り物にとても安い入場料で知られていました。
他の映画館のポスターはみな写真ポスターだったのにここのは色帯に文字だけたてに3行書いてあるものでした。
閉館した時期も昭和40年代だと思われますがよくわかりませんが
その後はミマス興業がガソリンスタンドを最近まで経営していました。
平成14年にはガソリンスタンドもやめ現在は分譲住宅地となりました。
位置は国道4号線を千住中居町の信号で東へ入り旧区役所前通りを直進し
北千住の大踏切をたっぷり時間をかけて渡り柳原へ入る手前
柳原の2重交差点の間の北側、新しい住宅が北へ向かって続き始めるところです。


小松亭
明治の末に建設されたこの劇場は演劇、浪曲、浄瑠璃などを演目とし映画はやりませんでした。
千住3丁目の大川亭(前述)より高級な出し物が多かったといわれます。
明治の初め登記所が置かれたこの地に払い下げを受け明治末に開業しました。
千住警察署のすぐ西に当たり今は暗渠になっている江川を橋で渡って入ったそうです。
昭和20年3月強制疎開によって取り壊されました。
現在その跡は小松クリーニング店となっています。


寿劇場
昭和22年に建設されたこの劇場も地方周りの芝居を上演し
多くのファンを集めました。
一般客の地方演劇離れはどんどん進み客数は激減し昭和50年惜しまれつつ閉館しました。
最終公演は地方演劇の見直しの風潮が出てきた頃だけににぎやかだったそうです。
位置は国道4号線を千住寿町の信号で西に入って
最初の信号を左折してすぐ右側のマンションとその隣の駐車場になっているところです。
右の写真は劇場の正面です。(石坂氏撮影の写真の部分)サンロードマップ所収


ミリオン座
千住で唯一の洋画専門館で昭和25年開館しました。
当初は千住仲町地区の商業的再建を目指していたようですが個人の経営になる映画館として建設されました。
終戦直後の建築統制の中で300坪の建坪の映画館の建設は大変な苦労があったようです。
館名は当時1万円の懸賞を持って公募されミリオン座とされました。
こけら落しの興業はファビオラでその後多くの名画を上映しました
戦争と平和がかかったときの写真を掲載してあります。
ディズニーのファンタジアや沈黙の世界なども上演されました。
氷川通り東栄会といっていた商店街もミリオン通り商店街と改められました。
しかし劇場映画の衰退によってここも昭和57年閉館になりました。
平成10年取り壊され現在は足立区の千住総合センターが建っています。
写真は建設者の森本氏の自伝所収サンロードマップ転載


千住シネマ
戦前は料亭だった跡へ昭和31年ごろ建てられた2階建ての劇場でした。
最初は新東宝系の映画館として知られ明治天皇と日露戦争で大当たりを取りました。
やがて大映系に移り評判の映画釈迦も多くの観客を集めました。
昭和40年ごろには映画でやっていけなくなったようで1年ぐらいの間ストリップ劇場になっていたそうです。
その後はまた映画に戻りOS映画系の劇場として昭和44年ごろ閉館するまで続きました。
現在は足立成和信用金庫柳町支店となっています。
位置は寿劇場でご案内した千住寿町の信号を西に入りそのまま直進し大門通り商店街のアーチのある交差点を左折します。
左折してまもなく左側に信用金庫の建物がありますがその場所が跡地です。
昔は北千住駅前通をまっすぐに北千住の信号を渡ると
その西北の角は三井銀行(現丸昌貸衣装店)でした。その敷地に沿って右へ入る小道を道なりに進むと
中居掘通り飲食店街がありましたこの2m程度の道はほとんどびっしり飲食店が続いていました。
道なりに大正道路を渡って少し行くと右側がその場所になりました。大門は千住遊郭の入り口だったのでこの繁栄があったのでしょう。
現在は中居掘り通りにはまだちらほら飲食店や商店が残っていますがどんどん一般住宅地化しています。
大正通りの西側は大門睦商店会となっておりまだ商店や飲食店が続いて大門通りに続いています。


これらの民営の劇場のほかに足立区役所の隣に建設された産業振興館も3・4階に劇場を持っていました。
地元の演劇を支援する形で運営されていましたが足立区役所の中央本町移転に伴って取り壊されました。
平成16年9月北千住駅西口再開発の完成によって足立区の経営するシアター1010が再開発ビル内に開業しました。
これによって千住の劇場0状態は解消しましたが映画館0状態は解消しません。
かつてほとんどの系列(戦前なら日活、東宝、新興、大都・戦後なら東宝、松竹、東映、日活、新東宝、大映、洋画)の封切り映画が
この地で見られたのはうそのような事態が続いています。
千住に映画館があったほうがよいかもう一度考えてみたいと思います。