千住の道路網の建設

荒川放水路の建設は千住にこれまであった交通網、用水路を
づたづたに切ってもはや使い物にならないものにしてしまいました。
多くの道は放水路の土手に当たって行き止まりになり橋は千住新橋のみが鉄橋で
ほかは木橋のため重量のある車両は目前に橋があっても迂回を余儀なくされました。
これはまた昭和の初めに起こった自動車の普及にも不都合なことでした。
それ以前から始まっていた道路の改良が急がれた由縁です。


ではそれまでの改良と名称の変遷の状況を見て見ましょう。
まず最初は主街道である日光街道から。
江戸時代は日光道中と呼ばれ徳川幕府の祖廟日光への道というのは皆さんご存知の通りです。
こんな名称を明治政府が使うわけがありません。
明治4年陸羽街道の名称に改められました。
明治6年1等道路についで明治10年一等国道に指定されましたが実態は同じことでした。
国道の幅員が4間から7間に改定され千住市内の拡幅が検討され始めた頃
すでに放水路の工事はかなり進んでおり大正9年4号国道として建設が本決まりになると
大正10年拡幅ではなく新道を建設することになりました。新道は7間ではなく22mとされました。
当時千住河原町にあった新開橋が交通の阻害であったこともあり千住大橋の架け替え
新開橋の廃止は拡幅と併せて実施されましたが新開橋南詰めより千住新橋までは新道とされました。
大正13年放水路の通水後千住新橋が完成しそれに合わせて国道も開通しました。
昭和2年には千住大橋も完成し翌年にはこの橋を渡って市電が千住4丁目まで乗り入れてきました。
昭和6年には梅田の交差点が完成し東武鉄道の廃線敷きが新しい国道となり大幅に拡幅され
梅田郵便局前まで開通しそこで旧道と結ばれました。今の梅田バス通りです。
この区間が国道だった時期は短く昭和9年には都県境まで今日の国道が完成しました。
昭和8年には梅島陸橋といわれた東武線をまたいだ跨線橋が完成し
東武線の高架による立体化まで使われたことはたいしたことでした。
右の写真は在りし日の梅島陸橋です。「写真で見る足立区40年のあゆみ」所収のものです。
この橋は戦時中木炭バスの馬力では登れなかったので乗客がバスを押して通したといわれます。
今日梅島陸橋の名称は環状7号線との交差点にかけられた陸橋に継承されました。
その後も改良が続けられ昭和44年から拡幅が行われ(昭和53年拡幅完成)
昭和44年には千住大橋が2本になり昭和47年から千住新橋の架け替えが始まり昭和53年には親しまれた旧橋が撤去され
昭和58年には千住新橋も2本とも完成しました北詰の高架部分の完成は昭和61年までかかりました。


次に大きな道は江戸時代に水戸佐倉道といわれた水戸街道です。
この道もご承知の通り江戸幕府副将軍家の所在地水戸へ行くための街道でした当然その名称は明治政府は継承しませんでした。
明治4年に浜街道と改称されました。この道は明治6年に二等道路についで明治10年に二等国道に指定されましたが
実態はもちろん変わりません。
明治18年の番号付与のとき水戸までは14号国道,
水戸以遠仙台までは15号国道とされました。
しかし明治末に放水路の工事が始まるとこの道は寸断されました。
大正9年6号国道に指定されると経路が変更され今の国道の経路になりました。
後にこの切断された旧水戸街道を結ぶ橋として仮称弥五郎新田橋が鉄橋で計画されました
これは千住新橋まで迂回するのが交通の阻害になっている、
堀切橋は木橋で重量のある車両が渡れないところから計画されました。
昭和12年には計画が策定され地質調査まで行われましたが何らかの事情で建設に至らなかったとの事です。
この橋ができていれば今日の常東地区はまったく違った形に発展していたと考えられます。
なお浜街道の名称は後に陸奥の国が5国に分割され,
終点仙台が新たに決められた陸前に属することから陸前浜街道と改称されました。
今日この道は千住地区にとっては駅より北側で線路を越えられる3本の道路のひとつとして重要性はかなりあります。
右の写真は千住5丁目の旧水戸街道分岐点に立っていた石標です。
昭和30年代に石坂満氏の写したものから転写しました。
現在これは足立区郷土博物館にあります。


主要な道路を順に見て行くと最初は今日の墨堤通りです。
これが以前は熊谷土手といわれた堤防であることはすでに述べました。
その時代には平地より高く聳えていかにも土手の風情を持っていたそうです。
その高さは今の高さより2mは高く天端は砕石舗装で幅員もいくらも無かったようです。
荒川放水路の完成によって西新井橋付近を失い、また防災的重要性も薄れたこの堤防を幹線道路にすることになりました。
昭和9年には西新井橋桜木町間が完成し昔日の桜土手の風情は失われました。
その後掃部堤に沿って西に進み削平と拡幅が繰り返されてゆきました。
戦後には墨田区から西新井橋を結ぶ幹線と位置づけられ今日の足立郵便局前付近は新道に付け替えられ
常磐線踏み切りは立体化され綾瀬橋は架け替えられました。
その後も整備は進み東武鉄道千住貨物駅の廃止に伴ってその踏み切りも廃止され今日の姿になりました。

次は北千住駅前通です。明治32年、駅〜旧道間が開設されましたがこれは2〜3間の幅員の道だったようです。
ちなみに2〜3丁目の境界をなす見番横丁の東側部分ではありません。現在の駅前通りの中心部分だと思われます。
昭和6年に新設された4号国道まで延ばされそのとき今日の幅員に拡幅されました。
当店の隣の番地はこの時の拡幅によって欠番とされています。商店数にして両側で10店舗が立ち退きになったようです。
この部分が昭和8年に完成すると昭和11年に4号国道墨堤通り間が開通し今日の姿になりました。
駅前と桜木町の交差点にはロータリーが設定されその中心には棕櫚の木が植えられていました。
桜木町のロータリーは戦後早くに廃止されましたが駅前のロータリーは最近まで残っていたので思い出の中にある方も多いかと思います。
昭和32年には駅前4号国道間に最初のアーケードが建設されました。
昭和57年に北千住駅ビル(今のルミネ)の完成を目前に全面的に改装され2階からアクリルドームが歩道を覆う明るいものに架け替えられました。
平成16年(今年)の西口再開発ビルの完成によって駅周辺は面目を一新し駅前交差点には商店街のシンボルタワーが建設されました。
駅前の植栽は長く親しまれた棕櫚に変わって欅が選ばれたました。これから新しい千住のシンボルにふさわしい大木に成長することが期待されています。


その他の道路の最初のものは四丁目新道です。この道は明治42年に現在の北千住郵便局横から西に向かって建設され
当時の金仏耕地まで作られました。
大正8年千住遊郭が千住柳町に指定されると沿道はその通路としても発展しました。昭和3年市電の終点が千住4丁目とされ
戦後、登記所(法務局城北出張所)が千住四丁目に設置されると千住四丁目電停周辺はこの通りを軸に大発展を遂げました。
国道には「千住銀座会」が千住四丁目側にこの通りに沿っては「新道通り商店街」が千住寿町側には「いろは通り」さらにその先大川町には
「ニコニコ通り商店会」が組織されました。その西には第3中学校が開設されその周辺の千住元町地区にも「明光会」と言う商店会が結成され
昭和20年から30年にかけてこの通りは全盛期を迎えました。しかし30年代に入ると赤線廃止によって千住柳町遊郭が廃止され(昭和32年)、
都電も廃止(昭和43年)になり、登記所も綾瀬に移転し、国道も拡幅になり40年代には地域の繁栄を支えてきたものが次々と失われました。
でも「いろは」「ニコニコ」の両商店街は地域密着型商店街として活動を続けています。
近年第3中学校も廃止(平成15年)となりさらに困難な状況が続いています。

次は大正記念道です。今通称大正通りとして親しまれています。
荒川放水路の完成によって廃止になる西掃部堀を埋め立てて大正5年に完成し大正天皇の御即位記念としてこの名がつけられました。
今では千住循環バスはるかぜの路線も設定されており
重要な準幹線道路の役割を果たしています。
大川町の氷川神社を起点にして千住中居町で駅前通と交わり
正和自動車教習所のまえで墨堤通りに達し終点となります。
この交差点の角に大正記念道碑があります。
表面には森鴎外の銘文が刻まれ千住とのいきさつから始まり
この道の完成を祝って終わります。
裏面にはこの工事に貢献した個人や団体の名が210件彫られています。
私の祖父の名ももちろん刻まれております。
写真はこの碑を囲む小公園です。
「足立風土記資料金石文1.」所収のものです。
私の出た第15中学校はこのすぐそばで
現在は足立青葉中学校と名称が変わってしまいましたが懐かしい地域のひとつです

次は尾竹橋通りです。現在は日暮里から都県境まで迄ですが放水路が出来た頃
西新井橋の南の地区は堤外地で荒地になっていました。
ここはその頃西新井村大字本木字堤外耕地と呼ばれました。
後に千住桜木町に編入され住居表示で千住桜木2丁目となります。
大正14年南千住の汐入から移転を命ぜられた東京北魚市場が
8000坪の埋め立てを行って移転してきました。
昭和20年に橋戸町に移転を命ぜられるまでこの地は魚市場の町でした。
その市場の東の縁に沿って道路が造られその隅田川に当たるところに
尾竹橋が作られました。
この橋の名はそれより南、駅前通りが桜木町のロータリーに突き当たった先を
さらに直進し鯨岡製袋会社の前を抜け堤防に当たったところにあった
お竹の渡しの名を継承したものです。
この渡し場はその桜木町の交差点から降りたところにあった
お竹茶屋の名称からついたかとも言われますが
橋の架かった翌年頃に廃止されたそうです。
昭和9年3月尾竹橋が完成し尾竹橋西新井橋間の道路も完成しました。
その後主要道路の名称は隅田川の橋の名を用いると決まると
日暮里から西新井橋を経由して都県境に至る道路が尾竹橋通りとされました。
この橋は平成6年に新橋に架け替えられました。

昭和17年に開通した板垣道路は4号国道と旧水戸街道分岐点を
つなぐものでしたがそもそも千住と王子方面を結ぶ道路として
企画されたものでした。
しかし東武の大師線が許可されなかったようにこの道も許可されませんでした。
従って開通したのは現在の部分だけでその名残と見られる路線が元町周辺にあります。
その名称はこの道を作るのに尽力した5丁目在住の板垣議員の名をとってつけられました。

昭和35年に開通した柳原大通は牛田堀放水路間の通りで
戦時中に強制疎開地として収容されたものを道路としました。牛田堀で旧区役所前通りとつなげて幹線道路としました。
今日では桜並木で有名になっています。道が細い柳原地区を縦貫する幹線道路として四つ木方面から千住に出る道路として
また震災や大火災のときの防火帯として重要な道路になりました。

最後に多くの道路は旧区役所前通りの江川堀を初めとして水路と組み合わさっていました。
放水路の建設以後これらの水路は次々に暗渠とされ道路の拡幅用地とされてゆきました。
昭和40年代までにほとんどの水路は暗渠となり見えるところから姿を消しました。
このようにして千住地区の主要な道路は建設されてきました。古道ではない新道の由来を記してみました。

今回は主として「足立区立郷土博物館編足立風土記稿地区編1千住」によりました。
足立区商業名鑑、旧水戸街道繁盛記、などを参考にしました。


平成18年2月18日千住汐入大橋が開通しました。
都道補助109号線の橋梁ですが、この橋の完成で堀切橋から来てとまっていたこの道路も南千住まで通じました。
都道としては環七の綾瀬警察側から南下して来て堀切菖蒲園駅の下をくぐって左折すると堀切橋に上がる道になります。
綾瀬川にかかる部分、続いて荒川にかかる堀切橋を渡ると墨堤通りにあたります。
その交差点を直進するとそこがこの千住汐入大橋の架かった所です。橋を渡ると隅田川の堤防道路に当たります。
それを左折すると白鬚橋に達し明治通りに当たります。右折すれば千住大橋たもとで国道4号線に当たる道です。
堀切橋は荒川が開削された時に完成したのですがそれは水戸街道の項で書いたように木橋でした。
位置は今よりやや下流で今の堀切駅前に入って行き止まりになる道路と対岸の商店街通りをつないでいました。
綾瀬川にかかる今の堀切小橋(旧橋)は鉄橋になりましたが位置は変わっていません。その延長線を想像してみると昔の位置が分かります。
堀切駅が今見ると如何にも辺鄙な場所にありますが昔は堀切橋のたもとで交通の便の良い場所だったことが分かります。
さてその旧堀切橋は狩野川台風で流失しその後堤防の嵩上げとともに鉄橋の新橋がかけられました。
葛飾側は国道6号線の白鳥の交差点から別れて京成線に沿ってここまで来る道です。
墨堤通りに当たって終点のわけはありません。
反対側は当時東製鋼の工場があり川向こうは南千住汐入の市街地でした。
しかしその先には鐘紡と日紡の工場跡地が広がっておりその真ん中を抜ける道は隅田川貨物駅を縦断し浅草方面に続いていました。
この道と結んで浅草へ結ぶのが最初の計画だったのです。
東製鋼が撤退すると平成に入ってすぐ西武セゾングループによって再開発が実施され億ションと云われたシティヌーブが建設されました。
その4棟の真ん中に計画道路が建設されてから既に約15年
一方南千住側も最初の計画と大幅に変わり堤防はスーパー堤防になり、そこに都立汐入公園が建設されました。
かつて川沿いにあった第3中学校・第5瑞光小学校(今の汐入小学校)・都立航空工業高等専門学校は全て内陸の住宅地に移転しました。
中小住宅の密集していた汐入地区も全て集合住宅に切り替わり
最大の敷地を誇っていた隅田川貨物駅もその敷地の半分以上を再開発地域に提供し高層の都営住宅や
ショッピングセンターに変わりました。その再開発がほぼ終わってようやく足立側の橋台が出来てから16年にして開通しました。