千住馬車鉄道の建設

明治も半ばになり各地に馬車鉄道が普及し始めるとこの陸羽街道(今の日光街道)にも

馬車鉄道をひこうという声が特に北のほうから起ってきました

そこで明治22年有限会社千住馬車鉄道が企画され千住中組を起点とし幸手を終点とする申請が出されました。

各地への打診や賛否の意見具申をへて明治23年株式会社千住馬車鉄道が設立され

明治24年着工の運びとなりました。

この間起点は千住茶釜橋に変更され工事区間の終点は粕壁に変わりました

千住茶釜橋は現在の千住新橋下南側グラウンド付近にあたり江戸時代以来千住宿の北端とされていました。

右の写真はマークと会社の住所が入っています。

マークは二本のレールの間に、千の字が描かれています。

工事は難工事や資金不足、現地の反対などもありかなり送れて

明治26年2月7日にようやく茶釜橋〜越谷間が開業しました。

その後5月6日越谷〜粕壁間が開業し粕壁〜幸手間は敷設断念となりました。

明治27年1月には遅れていた元荒川橋梁も完工し全線の工事が終わったのです。

下の絵は「千住馬車鉄道」の表紙の扉絵ですが企画されて現地の反対で作れなかった

大沢〜越谷間の元荒川の馬車鉄道専用橋を描いているようです。現実には奥に描かれている旧橋を拡幅して建設されました。

また明治26年6月から浅草広小路〜茶釜橋間、粕壁〜幸手間の普通馬車営業も始まりました。

さてこの鉄道ですが軌間は750mm、線路は路面に市街地では中央に郊外は片側に寄せて750mmの路肩を残して設置したそうです。

本社は茶釜橋に置かれ周辺に設けられた広場は馬車広場といわれたそうです。

原則単線ですが一部区間は複線で交換設備も何ヶ所かあったようです。

路線延長は25哩とされました。

駅は1.千住茶釜橋・2.竹の塚・3.草加・4.蒲生・5.越谷・6.大枝・7.粕壁で

停車場は1・2間に梅田橋、2・3間に水神橋、4・5間に三軒家

5・6間に下間久里、6・7間に備後がありました。

車両は1両・馬1頭で牽引されました。右の絵の通りです。

茶釜橋〜越谷間1日10往復、片道2時間、運賃19銭だったそうです。

たった7mの旧道の上に敷設したのですからかなり窮屈だったと思われます。

千住町が起点を中組にするのを大反対した事もうなずけます。

でも有名な熱海人車鉄道の後身、熱海軽便鉄道ではこのくらいの道の上を

蒸気機関車が軒すれすれに走っていたといいますから

それがあたりまえの時代だったのでしょう。

工事が遅れている間に久喜に東北線の駅が出来ると幸手はこの計画に冷淡になり

粕壁以北は敷設されなくなりました。

初年度こそそこそこの業績を出したのですがその後は収支償うのがやっとで

明治29年採算が割れた普通馬車区間を廃止、そして翌30年5月6日粕壁〜大沢間を廃止しました。

しかしリストラの甲斐もなく7月27日に全線の廃止を申請するにいたりました。

こうして30年の免許を取ったこの会社は足掛け5年の営業で廃止されたのです。

でもこの設備を安価に買い取って開業したいとの有志が

草加馬車鉄道合資会社を設立

明治31年11月16日大沢〜茶釜橋間で運転を再開しました。

当初は東武鉄道の建設作業員の利用が多くそれなりの成績だったようですが

明治32年東武鉄道が開業すると当然ですがもはや乗客もなく

明治33年2月2日解散となりここに最終的に廃止されました。

 

本稿は主として「春日部市史別冊千住馬車鉄道」によりました。図版も同じです。