荒川放水路の建設   完成とその後

大正13年岩淵で摂政の宮殿下(後の昭和天皇)、宇佐美東京府知事列席の下に通水式が行われた。

しかし土手の補強・水路の浚渫・閘門の建設・橋梁の整備などすべての工事が終わり
荒川放水路が完成したといわれたのが昭和5年のことでした
総工費3134万2146円かかったそうです。
開削の監督を務めたのは内務省の技師だった青山 士(あきら)という方で大変な苦労だったといいます。
右の写真はその肖像写真です。
時期は帝国大学卒業後パナマ運河の建設に従事していた頃のものだそうです。
帰国後内務技師となり荒川の改修を16年に渉って監督しました。
岩淵の水門脇にこの事に関する専門の博物館がありますので興味のある方は見学してください。
荒川治水資料館 http://www.ara.or.jp/amoa

ではその放水路の概要をご紹介しましょう。
その完成した規模は川幅は岩淵で250間(455m)河口で320間(582m)
低水路は同じく60間(109m)と140間(255m)勾配は5000分の1
これは5kmいって1m下がる傾きです。
水門の数は7箇所にも及びました。綾瀬川と中川は東側に平行した新しい放水路を別に作られ
河口で合流するようにし水量の超過や逆流の防止が図られました。

低水路の深さは4m
堤防の形は河道側の斜面の勾配は30%市街地側は中段を設け20%と設定されたそうです。
天端は都内側は8間(14.5m)で郊外側は6間(10.9m)で若干、都内側のほうが大きく作られました。
ほぼ2階の屋根の高さになります。
これは非常出水水位より2.1m高く設計したといわれております。

この放水路の完成によって都内側は排水場の機能を高めれば
明治の水害のような根本的な大水害はなくなりました。
これに対して郊外側は排水場の能力不足もあり放水路の土手は水はけを阻むものとなりました。
たとえば昭和33年の狩野川台風による堤北一帯の出水は長期にわたったが
これは芝川の放水路への合流を止めたためこれが決壊し北岸にたまった水は
長期にわたって滞り最終的には消防車による排水にまで頼る事になった。
この時、私は小学生でしたが放水路が切れそうだというので従兄弟と千住新橋へ見に行き
堤防の下1m位の所を渦巻いて流れている川に消防団が次々に土嚢を放り込み
補強を続けているのを見ました。思えば当時は危険だから子供は入るなとは言われなかったようです。
この時危険水位をかなり超えたようで木橋だった堀切橋は流失しました。
そこでただちに堤防の嵩上げが決定され、木橋は鉄橋に架け替えられるようになりました。
工事は北側に高速道路を造る事と相俟ってかなり長期にわたりました。
昭和34年から53年に渉ったこの期間に堤防はほぼ1層分嵩上げされました。
西新井橋は昭和36年に堀切橋は昭和40年に千住新橋上り線が昭和53年に下り線が58年に架け替えられました。
かつて東京大学土木教室の設計で名橋の名が高かった旧千住新橋も撤去され、その親柱は大川町の氷川神社に保存されました。
この間に常磐線東武線の鉄橋も嵩上げされ今日の姿になりました。
京成電鉄の鉄橋は今日に至るも昔の高さのままなのが
堤防に穴が開いているようで一抹の不安を残しています。


河川敷(高水路)の部分は運動施設として利用され学校プールが無い時代には水練場が設置されるなどし
その後は野球場などの多目的なグランドに使われました。
また第二次世界大戦中は田圃や畑が設けられ食糧増産に寄与しました。
橋が不足だったので初めの頃は渡し舟も何箇所か設けられていましたがやがてそれらは廃止され
船着場にはボート場が設けられるなど地代と共の変化を重ねてきました。
今日でも柳原には釣り船用の船着場が1箇所あります。
現在は主として公園と運動場に整備する方針のようで千住新橋下の虹の広場をはじめとして
多くの公園が設定されています。
また野球場なども何箇所も設けられています。
これからも区民の憩いの場を提供する大きな空間として期待されています。
この空間を以下にうまく使うかが千住の将来にも影響を与えるでしょう。