荒川放水路の建設ー建設中

明治44年決定してからの作業は早く4月に発表されて6月には土地収用事務所が設置された。
翌年年号が改まり
その翌年大正2年の初めには土地収用の実行に入り3ヶ月で予定地域の85%と契約を結んだという。
そして大正4年3月土地収用事務所が閉じられるまでに96%の契約を成立させていたという。
この土地収用事務所は千住の牛田にあったといいます。
後に工事事務所が設置される今の墨堤通りと堀切橋通りの交差点「アオキ」の付近かと思われます。

大正2年買収の終了したところから工事は着手されました。
工事は整地・掘削の順で進められ問題のあるところを除いて上流から着手されたようです。
それと同時に付け替えや水路修正を必要とする綾瀬川中川の新水路建設も同時に着手されました。
立ち退いた建物や農地を整地して平らな空地とし
次に掘削する場所へ掘削機エキスカを置き掘削が始められました。
この機械は蒸気機関車と組み合わされ指定の位置に敷かれた線路の上を少しずつ進んでいきました。
そして引き上げられた土はそれと並行するトロッコの線路に待機する
運搬車に積まれていきました。このトロッコは堤防を建設する位置まで
土を運び掘りあげられた土は新堤防に変わって行きました。
このエキスカと機関車の組は全部で8組あり沿線8箇所で同時に工事が
進行していったといいます。この作業の様子は大きなジオラマに再現されて
足立区郷土資料館に展示されています。興味のある方はぜひご覧になってください。

右の写真はそのエキスカの写真です右側に土を削り取ってくるバケットが見えます。
左側には蒸気機関車が待機しています。
この機関車は当時よく使われていた軽便鉄道用のもので
現在の機関車のような大型のものではありません。
従って作業位置の変更に伴う線路敷き替えなどもいとも簡単にできたようです。


寺院神社で千住地区でこの用地にかかったところはかなりありました。
千住5丁目の鎮守だった氷川神社は日光街道が名倉の手前で左に大きく曲がって
安養院の前をきた西裏通りと当たるもう少し先の右側
今駐車場になっている付近にあったのですが
敷地の大部分が買収となり大川町の現在地へ移転しました。
ちなみにかつて茶釜(光茶釜の項参照)といわれた石原家は現在その神社の旧地の前へ移転してきました。
つまり今の石原製作所の前が神社だったわけです。
千住3丁目の鎮守だった氷川神社は今の東武鉄道堀切駅の北の川の中に当たる部分にありました。
今の本氷川神社はその末社で郡史には荒川神社とありますが買収になった本社を合祀して今本社となりました。
理性院は柳原村の北端にありましたが買収とともに柳原の現在地へ本堂を曳家で移転したといいます。
千住5丁目の水戸街道分岐点から東に行くと左側に槍掛けの松で有名な清亮寺があります
この寺は移転しないで済んだのですがさらに先へ行くと今は荒川の土手に当たってしまいますが
その右側にあったのが真福寺です。ちょうど今の土手と河川敷にかかる場所に当たります。
この寺は新しくできる千住新橋の北詰、後の千住八千代町(今の梅田1丁目)の地へ移転しました。
千住の旧街道をまっすぐ北へ向かうと名倉医院の前から下妻街道となります。
名倉医院は骨接ぎの代名詞となった江戸時代以来の有名な医院でしたがぎりぎりで買収されませんでした。
その先で千住元宿から小菅へ抜けていた道と交わります。他のもう1本の道と交差していた六差路なので
六道の辻と呼ばれていたところが今の荒川の中央付近にありました。
ここにあったお宮は後の千住高砂町(今の足立1丁目)に移転し高砂神社となり新しい川で隔てられた
千住町北部の鎮守となりました。
千住地区だけでもこれだけの寺院神社が移転しました。
普通の民家の移転は推して知るべしでその無念を訴えた碑が感旧碑です。現在の元宿神社にあります。
ここには江戸時代からの千住元宿の開拓から放水路の建設による離散までの歴史が記されています。

右の写真はその感旧碑です。以下に関係部分を引用してみましょう。

前略
明治40年、同43年洪水あり、家屋を浸すこと十余日、田圃荒廃に帰するも、
尚去らず。大正元年8月、内務省、荒川改修の工を起こす。我が邑も亦、
改修区域に属す。すなわち十四家故地を挙げて之を公に致して、
以って四散せり。嗚呼、我が族、此に住みしより四百余年なり。(中略)
今故地を去るに臨みて愛慕の情転た禁ずること能はず。すなわち碑を
八幡祠前に建て、その梗概を記して以って不朽に伝へんと爾云。

(原漢文、訓読は足立区資料による)

また補償金支払い後まもなく起こった昭和初めの金融恐慌によって多くの銀行が倒産し
預金していた補償金の多くを失った方も相当数に上ったようです。
このあたり運不運の問題があるようですが敷地にかかった庶民は大変苦しい思いを強いられたということはいえると思います。


放水路の建設区域には多くの交通機関が通っていました
道路に関しては上流から中山道・岩槻街道・陸羽街道(元の日光街道)・陸前浜街道(元の水戸街道)・
奥戸街道・千葉街道などなど中小の道路については際限ありませんでした。
ここでは千葉街道や木根川橋周辺の多くの物語は割愛して千住の部分の話に限らせてもらいます。
低水敷(川の水が流れている部分)が掘り込まれていくと多くの道が切断され
交通が不便になって行きました。
千住の本街道は大正6年、千住新橋がかけられる都合上敷地手前で早くに切断され
今の「学びピア」の手前から土手になる部分を越え堀残された
下妻街道を北進し土手の北側にそって作られた道(今の平和橋通り)を川田橋まで西へ進み本街道(今の旧道)
に達しました。その後土手がどんどん高くなって行くとその斜面を荷車が上って行くのはどんどん大変になったようです。
ついに下妻街道部分の掘削が始まるとその脇やや上流部分に船を並べて船橋を作ったといいます。
この状態は大正12年から千住新橋が完成する
大正13年6月まで続いたそうです。

右の地図はその本街道が下妻街道に迂回した
時の地図です。土手を越えると右へ曲がって
堀残された下妻街道につながり
北側の土手を越えると左へ曲がり川田橋から
北へ進む様子がよくわかります。
川の掘削が部分的に進みその部分が
池になって行くさまがよくわかります。
常磐線はもう新線が着工していますが
東武線はまだのようです。柳原方面は
立ち退きが終わって整地が進んでいる状態
のように見受けられます。
左側に見えるように西新井方面の連絡は
旧桜土手が大正12年まで残っていました。
これは関東大震災の直後大正12年9月25日に予定通り爆破され取り除かれました。

大正13年に千住新橋の完成を待って
全川に通水された、
時に大正13年(1924)6月20日のことであった。

この時までに千住地区には鉄橋の千住新橋、
木橋の西新井橋、堀切橋が完成していました。
鉄道も常磐線、東武線の線路の付け替えが
終わって共に鉄橋がかけられました。

本稿の記事は主として
新版荒川放水路物語、絹田幸恵著 新草出版によりました。
写真地図は足立区教育委員会編 ときめきイン足立 所収のものを転載しました。
そのほかに足立区郷土博物館編 足立風土記稿千住、足立風土記資料金石文1などを参考にしました。